正しい先生ではなく、自分らしい先生であってほしい。自分の本当の「願い」に気づく、対話のチカラとは?
改訂された学習指導要領のキーワードである「主体的・対話的で深い学び」。
「何を学ぶか」だけでなく「どのように学ぶか」が重視され、「主体的・対話的で深い学び」を実現する授業への改善が求められているが、そもそも「対話」とは何だろうか。
「対話」が重要視されているにもかかわらず、職員室では議論や会話に終始してしまい、教職員の心理的安全性が担保されていない現状もある。
そこで、学校現場の組織変革を「本質的な対話」によって導いてきた組織開発ファシリテーターの渋谷聡子さんに、そもそも対話とは何か、対話の重要性や可能性、その始め方について話を聞いた。
青森県出身。「個人と組織の可能性を引き出す対話と共創造」をテーマに、本質的な対話の実践による組織開発支援を行う。
株式会社ベネッセコーポレーションを経て、エグゼクティブコーチとして独立。2014年、教育現場の支援に特化した合同会社ファミリーコンパスを立ち上げ、教員同士の対話を主体とした組織風土改革、「主体的・対話的な学び」の実践、カリキュラムマネジメント、働き方改革等を自走していける組織づくりを支援している。日本女子経営大学院講師。清泉女子大学非常勤講師。
「学校で唯一教わらないことがある。それは自分がどうしたいかってことなんだ」
——渋谷さんは、対話による教職員の組織風土改革や、子どもたちへの「主体的・対話的で深い学び」を実現するための研修講師として引っ張りだこですが、先生や教育関係者にとっての「対話」の重要性について、どのように考えていらっしゃいますか?
今、一律一斉の教育から個性や多様性を尊重する教育への移行期にあるというのは、共通認識だと思いますが、そのような時代背景の中で「対話」が重要視されている理由は2つあります。
一つは、自己との対話を通して「自分と向き合い、自分を知ること」がこれからの時代に欠かせないということです。
今後日本は、人口が減少しAI化が進み、今の子どもたちが生きる10年後20年後には生活様式が大きく変わることが予想されます。今の当たり前も正解も通用しなくなる時代においては、何が正解かより、「自分は何を大事にして、生きていきたいか」という個の確立が、ますます問われていきます。
しかし、予測できない未来を生きる子どもたちを育てる大人は、そうは育っていません。だからこそ、まずは大人が自己との対話を通して、自分と向き合い、自分を知ることを実践しなければなりません。
子ども向けワークショップでよくお伝えしているのが、「学校ではいろいろなことを教わるけど、唯一教わらないことがある。それは自分がどうしたいかってことなんだ」という話です。
——たしかに、それは誰も教えてくれないですし、忙しい日々の中で、考える機会も少ないかもしれません。
これは先生方にとっても大切なことですよね。
教師という仕事を通してどう生きていきたいのか、何を社会で実現したいのか。それが自己との対話を通して、徐々に生成されていきます。
先生が自己と向き合い続けるというあり方を体現して、その背中を子どもたちに見せることができたら素敵ですよね。
そして二つ目の理由は、対話を通して、子どもたちの多様性を受け止める受容力や共感力が養われるということです。
これまでの学校の評価基準ではおさまらない多様な子どもたちにとって、先生から問題児として扱われるのではなく、自分の内側にある世界を聴いてもらえ受容してもらえた体験が、その子の自己承認や個性を育む上でとても重要になってきます。
例えば、ある子が誰かに乱暴なことをしたとして、問答無用にとにかく叩いちゃダメと評価を下して終わりではなく、その子の中で何が起きてそうなったのか、どのような願いがあったのかに耳を傾けてみます。すると、表面的な行為からは分からなかったその子の「痛み」や「願い」が必ず聴こえてきます。
「正しさ」を保留した対話によって、これまで見えていなかったその子の命に触れた先生の意識やあり方が、大きく広がっていく瞬間に何度も立ち会ってきました。
そのような体験によって、教師としての醍醐味がさらに見えてくるのではないかと思います。
対話は、意見の奥にあるそれぞれの「願い」を内省し共有していくプロセス
——対話とグループ学習の違いが明確になっていないなど、「対話」への理解にばらつきがあるように感じています。
グループ学習はいろいろな考えや意見を出し合いますが、対話は意見の奥にあるそれぞれの「願い」を内省し共有していくプロセスです。
研修では、いつも3つの対話について説明をすることから始めています。
一つ目は、自己との対話です。
自分との対話というと、ピンとこない方もいるかもしれませんが、「主体的・対話的で深い学び」でも「対話」の前に「主体」が入っています。自己との対話が全てのベースにあり、自分がどうしたいのかが分からなければ議論も会話も深まらないんですよね。
つまり、自己との対話は内省です。
二つ目は、他者との対話。他者との対話には、「相互理解」と「共創造」の2つがあります。
相互理解は、全く価値観の違う人のニーズ(願い)を知ることです。ここまでは皆さんできるのですが、共創造が実際に取り組もうとすると難しいんです。
共創造とは、違う価値観を持つ、多様な人と人が、互いのニーズを満たす道を共に創造することです。
多様性は認められるけれど、多様性の中から一つの合意形成をしようとすると対立や抵抗が起こる。ここでもいかに自分の「正しさ」を保留し、超えられるかが重要な鍵になります。
最後の三つ目は、社会・世界との対話です。
気候変動や食品ロス、最近であればウクライナ情勢など、さまざまな社会課題がありますが、それらの社会課題と自分はつながっているんだということを自覚する深い対話です。
社会課題と自分を分離して、分析して評価するのではなく、当事者意識を持ち変化を生み出す担い手となれることを、対話を通して自覚していきます。
ここまでお話すると、グループ学習との違いも理解していただけることが多いです。
——共創造の難しさは、実際に味わった経験があります。
特に、職場や学校などの日常的で身近な関係ほど難しいですよね。
実際に研修では、「話し方」と「聞き方」の4つのフィールドを体験していただいて、「相互理解」と「共創造」の理解を深めていきます。
4つのフィールドというのは、「儀礼的な会話」「討論」「共感的・内省的な対話」「共創造・生成的な対話」です。
「儀礼的な会話」はイメージしやすいと思いますが、あたりさわりのない会話です。
例えば、関係性が深まっていない状態のPTAの集まりを想像してみてください。丁寧だけど警戒し合っていて、様子をうかがうような態度で、それぞれが何を考えているか見えにくい状態です。そこから誰かが本音を言い始めると対立軸が現れて、「討論」になります。
そうすると、場が荒れたように感じるため、あたりさわりのない会話に戻ろうとします。意見の衝突を避けたくなってしまうんですよね。
「儀礼的な会話」と「討論」を行ったり来たりするうちに、次第に対話することを諦めてしまう。これが組織が膠着した状態です。
——対話との違いが理解できました。
「討論」は、自分の意見がいかに正しいかを主張して説得する行為なので、外側の相手に意識が向いている状態です。そこから「対話」へ入るには、まず意識を自分の内側に向けます。
私がここまで熱くなって相手に理解してもらいたいことは何だろう?と意識を自分に向けることで、自分の願いに気づき(自己共感)、全く理解できなかった相手に対しても、もしかしたらこういう願いがあるのかも?(他者共感)と気づくことができます。
対立しているのは「手段」であって、その奥にある「願い」は理解・共存しあえるということを体感する、それが相互理解にあたる「共感的・内省的な対話(Reflective Dialogue)」です。
ただ、だいたいここで終わってしまうことが多いのです。内省して共感し、「みんな違って、みんないい」で止まってしまう。それでは変化が起きないため、結局トップダウンの意思決定に戻ってしまいます。
これまでの「あたりまえ」を超えて新しい未来を共に創造する「生成的な対話(Generative Dialogue)」までいけるかどうかが、これからの時代の対話の鍵だと思います。
共感って何?エンパシーとシンパシーの違い
——なぜ共創造を生む「生成的な対話」は難しいのでしょうか?
生成的な対話は、自分と相手の異なるニーズ(願い)を共に満たす道を探して創造していく対話です。
私と相手の間に「こうあるべき」を挟んでしまうと対話ができないので、一旦「こうあるべき」を脇に置き、相手にどんなニーズがあるのかを軸に会話するのが、対話の基本になります。
でも、どうしても人は自分の「正しさ」や「こうあるべき」を手放せない。なぜなら、これまでずっと「正しい生き方」をするためにがんばってきたからです。
実際に10年以上対話の研修を行ってきましたが、結論、自分のニーズと相手のニーズを完璧に満たす道はありません。
でも、対話に意味がないかというとそうではなくて、「こうあるべき」という固定観念を少しずつ、私も相手も広げていくことで人として成熟していきます。その道のりは非常に疲れるし、根気がいるし、自分の嫌なところにも向き合わなければいけないし、思わず反応してしまうこともあります。
だとしても、コンフォートゾーン(自分にとって慣れ親しんだ価値観や居心地が良いと感じる心理領域)にとどまっていてもうまくいかなかったり、満たされないことがあるんですよね。
だから、コンフォートゾーンを超えてその先に冒険していこうとすることで、人としても組織としても成熟していくのではないかと思っています。
——どうしても「こうあるべき」が強い人と出会うと、関係構築を諦めてしまうことがあります。
そうですね。「すべての攻撃は悲鳴である」という言葉があります。
攻撃的な言動や「こうあるべき」に固執してしまう人は、そこにたくさんの願いがあったのにそれを分かってもらえなかったという痛みを抱えていることも多いです。だから余計、その主張がいかに大事かを訴えてしまう。
でもその奥には必ず「願い」があります。
「べき」かどうかで話をすると「どちらが正しいか、間違いか」という分断、対立が起きてしまいますが、「願い」は共存できます。
「べき」の奥にある「願い」という心の声が場に表現され、みんなに聴いてもらえると、氷が溶けたように心を開いていく先生はたくさんいらっしゃいます。
関係性を構築するのが難しいと感じる先生にも純粋な「願い」があり、その「願い」に触れることで周りの先生方にも何かが響き、先生同士が「命」と「命」として向き合う関係性が始まっていきます。
共感して受容されたら、初めて「こうあるべき」を手放せるので、どんな人の奥にも必ず「願い」があると信じて対話してもらいたいです。
——「共感」がうまく言語化できないのですが、共感とは何でしょうか?
共感(エンパシー)は、同情(シンパシー)と混同されがちです。
例えば、相手の状況を不幸だと解釈してかわいそうに思うのがシンパシー、その状況に対して自分の解釈を脇に置いて、相手は何を感じ、何を求めているのかを共に観ていくのがエンパシーです。
シンパシーのシンは、シンクロニシティやシンクロナイズドスイミングのような同質性を表す言葉です。例えば、似たような経験があったり、自分に近い価値観を持つ相手に対して、自然に湧いてくる心情です。
一方、エンパシーのエンは中から引き出すという意味で、自分と相手を同一視せず、意見や価値観が合わない相手であっても、その人の感情に共鳴し、願いを理解していく行為で、そこには自分の解釈や正しさを手放す「意志」が必要になります。
対話の哲学者マルティン・ブーバーは著書『我と汝』において、人はみんなヴァイオリンの弦のようなものを持っていて、相手の悲しみの振動によって自分自身の弦が相手と同じように共振すること、それが共感なのだと言っています。
——ヴァイオリンの弦ですか。
自分と相手には境界線はなく、相手が子どもであろうと上司であろうと人としての痛みがあり、その奥には願いがあるということをただ受け止めること、それが共感です。
頭で理解するのではなく、ただただ何か震えている、悲しみや怖さがあるんだねということを一緒に感じ、共振することです。
そして共感に必要なのは、自分の固定観念や社会通念をいかに保留できるかなんですよね。
痛みの中にいる相手を何とかしようと、解決策を提示したり指導をする時点で、相手を直すべき1つの症例として扱ってしまう。それが「我とそれ(it)」という状態で、「課題」に意識が向いてしまい、目の前の命とは切り離されている状態です。
そうではなく、お互いの立場や役職を超えて、かけがえのない「命」と「命」として向き合うこと、そうすることで初めて見えてくる風景があります。
人は気づきさえすれば、その先のアクションは自然に生成されていく
——対話を通して、自分の内なる願いに触れたとき、その人にどんな変化が起こるのでしょうか?
一番顕著な例は、主語が変わることです。「相手がどうか」ではなく、「自分はどうか」に主語が変わります。
一つの例として、ある校長先生のエピソードを紹介します。
若手のA先生の考えが理解できず、どうしても受容できないと打ち明けてくれた校長先生がいました。A先生が「あまりに忙しくて我が子と過ごす時間がないから教師を辞めたい」と言ったことに、憤りを感じていらっしゃいました。
自分の学校の子どものことを最優先に考えるのが教師としてのあるべき姿ではないかと。
ところが、研修で共感のデモンストレーションを体験してもらったところ、その校長先生から、実はA先生に期待しているということ、支えたいという気持ち、教師を続けることで得られる喜びをA先生と分かち合いたいという願いが出てきたんです。
その瞬間、校長先生の表情がみるみる変わっていきました。
そして校長先生は、「僕は気づいたことがある。学校を辞めてまで一緒にいたいと言ったA先生のお子さんのこと、名前も知らないし年齢も知らない。こんなに子どもが大事って言っているのに、A先生の子どものことを一人の子どもとして見ていなかったとに気づいた。その子の成長も一緒に見守っていきたい」と話してくださいました。
最後に、「今度ゆっくり会話してみます」とアクションプランも立てられていましたが、そのアクションが共創造の一歩になります。
この校長先生のように、気づきによって変化が短時間で生まれることがあります。人は気づきさえすれば、その先のアクションがおのずと生成されていくのだと実感しています。
——自己との対話、内省が全てのベースということでしたが、実践するには何から始めたらいいでしょうか?
自分の意識や行動に自覚的になるというのが、自己との対話のゴールです。
そのために最初にしてほしいのは、セルフ・アウェアネス(self-awareness:自己認識)です。起きた事象に対して、ジャッジしないでただ観察することから始めてみます。
例えば、今イライラしているな、不安もあるな、でもちょっとワクワクしている自分もいるな、と自分の感情に気づいていくこと。そしてどんな反応パターンがあるかも観察してみます。
こういうとき私はすぐに言い返すなとか、黙って距離をとろうとするなとか、行動パターンに気づくはずです。
私たちはつい、どう対処するかばかりを考えてしまいます。でも、何かを変えるのではなく、気づくだけでいい。
私は、気づきの力を信じています。一人ひとりが自分の願いに気づいて受容したとき、自然と何かが変容し始めるんです。
——「気づく」ことが大切なんですね。
人間の脳は、不確実な状態にい続けることが苦手です。解決してクリアにしたいと思ってしまう。そうすると内省を阻んでしまいます。
でも、混沌を混沌のままで受け止め、不確実な葛藤と共にい続けられるか。葛藤の先にこそ創造と希望があることを信じて自己と向き合い続けることが内省の鍵であり、成長の鍵です。
不確実な状態でい続けることにより、心のスペースが広がっていきます。すると、相手の言動に反射的に反応せず、一拍おいて「願い」から自己表現することができるようになっていきます。
多様な願いを祝福し合える社会を目指して
——学校で対話の文化をつくるために、何から始めるといいでしょうか?
方法はいろいろありますが、対話による組織改革を行う上で欠かせないのは、校長先生の覚悟です。
先生たちの多様な教育観や価値観が表面化して、ネガティブな声や見たくないものが出てきても受け止めるという、覚悟のケイパビリティが必要です。
ポジティブな声だけ聞いて、ネガティブな声に蓋をしてしまうと、本来の先生方のパワーや可能性が出てきません。だから、どんな声や感情が出てきてもいいという受容と、その先の願いに気づくことで、本来の先生たちの力が発揮されていきます。
校長先生が、先生たちの可能性を信じることですね。
——校長先生の覚悟が、前提条件として必要なわけですね。
校長先生がまず自ら殻を破り、痛みや願いを本心から伝えることで、先生方の心に響くこともあるんですよね。
ただ、覚悟したつもりでも、いざそうした多様な声が出てくると、気持ちが揺らいだり防衛的になったり、自己正当化してしまうことも、やはりあります。それが悪いわけではなく、それを受け止めて伴走するのが私のような外部パートナーの役割の一つだと思っています。
企業の経営者もよくおっしゃることですが、校長先生もすごく孤独なんですよね。そんな状況で校長先生が覚悟を持ち続けるために、外部の協力者をうまく使っていただきたいです。
校長先生が自身の願いに自覚的になって、他の先生や子どもたちの願いを受容する人として成熟していくことが校長の役割だとしたら、取り組みがいのある仕事ですよね。
私はそんな先生たちの共感者であり続けたいと思っています。
——校長先生の覚悟が整っている状況では、次にどのように進めると良いでしょうか?
校長の覚悟の次には、やはり先生が対話を体験することです。
そのために、対話を進めるための少人数のコアチームを作るのがおすすめです。私は、学校の組織変革をサポートする際には、必ずコアチームを作っていただくようにお願いしています。
学校の外ではなく、内に、対話の重要性や、対話で何か変えたいと心から願う人がいると、私がいなくても日々のちょっとした会話の中で、少しずつ対話が広がっていき、組織変革が起きていきます。
職員室の空気が変わったとか、上下関係が和らいだとか、若手の先生が本音や弱音を言えるようになったなど、対話によって関係性の質が変わったと先生一人ひとりが実感を持つことが大切だと思います。
——最後に、読者の方へメッセージをお願いします。
大人も子どもも誰もが、自分の本当の願いを自覚し、恐れずにその願いを表現できる学校、社会であってほしいというのが一番の願いです。
そのためにはまず、先生自身が満たされていることが何よりも大切です。
正しい先生ではなく、自分らしい先生であってほしいですし、自分らしく生きることがこんなに美しく豊かなことだと、子どもたちに見せてもらいたい。
大人たちが自分の本音や真実を言えないというのは、幼少期に、思いがあるのに大人たちの「こうあるべき」や正しさに、たくさんの自分の声をかき消されてしまったから起きていることではないかと思います。
みんなが自分の声を思い出したり、取り戻すことに私は貢献したいし、多様な願いを祝福し合える社会作りに、命の限りを尽くして取り組んでいきたいと思っています。
〈取材・文=鈴井 孝史/写真=ご本人提供〉
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