ハイテックハイで20年以上働くJohn Santosさん1.7万字インタビュー!収束から発散を大事にするハイテックハイのPBLとは?
アメリカ・カリフォルニア州のサンディエゴにある学費ゼロの公設民営のチャータースクール、ハイテックハイ。
同校は教育における「公正」を実現するための手段としてプロジェクト型学習(PBL)に特化しており、その教育理念やカリキュラムには世界中から注目が集まる。
そんなハイテックハイで20年以上にわたり教壇に立ち続けているのが、John Santosさんだ。
Johnさんの教育観の変遷、生徒たちへのまなざしやハイテックハイのPBLの特徴などを、1.7万字にわたるインタビューで深掘りした。
教育の未来を考える一助として、Johnさんの言葉に耳を傾けてみてほしい。
20年ほど前に入職し、ハイテックハイで生物学と環境科学を担当。PBL(Project Based Learning)を通して、生徒が本物に触れる深い学びの経験ができるような公正な学習環境をデザインし、定期的に日本の教員や教育者を対象にPBL研修も行っている。ハイテックハイの教育大学院で教育リーダーシップの修士号を取得。
意義のある学習を生み出すのは、意義のある学習体験を設計できる学校
——まずは、2000年にハイテックハイが誕生した背景について、お話をうかがえますか?
私はハイテックハイに強い思い入れがあります。ですので、まずはハイテックハイを設立した2000年以前のアメリカの教育の状況についてお話をさせてください。
2000年以前はサンディエゴだけでなくアメリカ全体で、ほんの一部の生徒は非常に有意義で、影響力のある学習体験にアクセスできている一方で、他の生徒はそのような学習体験にアクセスできていない状況にありました。それが私たちの国に分断を生み出していたのです。
当時は、質の高い影響力のある教育を受けたい場合には、高い料金を支払って私立学校に通わなければなりませんでした。そして、それ以外の生徒は公立学校に通っていました。これは明らかに不均衡で、学習体験に格差を生み出していました。つまり、学習体験に分断が生じていたのです。
私たちを含む当校創設者たちは、「高額な私立と同等の質の高い学習体験を、生徒に無料で提供できる、誰でも通える学校を作ることはできないか」と考えました。これは私たちにとって、一種の「宣言」でした。
——宣言ですか。
つまり、意義のある学習を生み出すのは、優秀な学校や生徒ではなく、意義のある学習体験を設計できる学校であるという宣言です。
どの生徒も、意義深く影響力のある学習体験にアクセスできれば、よい学習者になれるし、成功できるし、自分の情熱や興味関心に合わせて自己啓発できるのです。そして、それがコミュニティに影響を与えるようになります。
このような背景の中で、ハイテックハイは設立されました。ただこれは実験的な取り組みで、先に述べたような哲学をもって始めましたが、必ずしもうまくいくかは分かりませんでした。
サンディエゴで始めたのは、サンディエゴが非常に多様なコミュニティだからです。超がつくような富裕層から極貧層まで、また人種的にも多様です。だからこそ、今までとは異なる学習体験、学校システムを試すなら、サンディエゴがもっとも適した場所だと考えたのです。
——実際にハイテックハイを開校し、周囲の反応はいかがでしたか?
学校が実際に成功したかどうかを測る1つの側面に、入学希望者の数が挙げられます。だから「こんな学校には行きたくない」とか「こんな学習体験はしたくない」と言う人が多ければ、完全な失敗に終わっていたかもしれません。
しかしありがたいことに、ハイテックハイは大成功でした。生徒たちが集まり、体験型の学習を楽しみ、革新性や協調性、実践的なスキルセットを重視していることを喜んでくれました。そして次の年には、さらに入学希望者が増えました。
人気が高まるにつれ、開校できる学校の数も増えていき、2024年現在、私たちは小・中・高合わせて16の学校を開設しています。さらには、教員養成大学院と教員資格認定プログラムも設立しました。
全てが同じ価値観や哲学に基づきながら、こうして発展を遂げてきたのです。
——どのような価値観を共有されてきたのでしょうか?
いくつかの価値観を持っていましたが、例えば、私たちは学校の規模は小規模にしたいと考えました。そうすることで、生徒たちが互いを知り合える雰囲気を作ることができます。
またクラスサイズも小さく、先生が生徒一人ひとりをよく理解して、個別の学習をサポートできるようにしました。このような価値観に基づいて、ハイテックハイを創り上げていったのです。
なぜ、PBLにこだわるのか
——ハイテックハイは今では16の学校を運営していますが、学校が拡大する中で気をつけたことはありますか?
私は学校の拡大については、非常に慎重でなければならないと思っています。過度の拡大は、影響力を薄める可能性があるからです。規模が大きくなるにつれ、これまで培ってきたノウハウを持つ教員たちが離れ離れになってしまうのです。
例えば、半数の教員が新しい学校の立ち上げに携わったとしたら、既存の学校から半数の経験豊かな教員がいなくなってしまうわけです。そうなると、具体的なノウハウだけでなく、共有してきたコアの価値観が薄れてしまう恐れがあります。ですから私たちは、拡大の過程で学校の価値観に沿った学習をデザインできる人材の確保に細心の注意を払ってきました。
しかし同時に、多くの学校は成長するにつれ変わらないよう努力します。けれども変わらないわけにはいきません。
2000年のハイテックハイと2020年のハイテックハイとでは大きく異なるはずです。20年の間に社会は変化してきました。その間に登場したさまざまなソーシャルメディアプラットフォームを思い起こしてください。20年後の学校は、ハイテックハイでさえも今とは異なっているはずです。
ですから、核となる公正や学びの個別最適化、真正な学び、協働するデザインといった価値観を維持しつつ、同時に進化していく必要があります。現在の学校は、現在の社会を反映したものでなければならないのです。
——大切にしてこられた原則の一つである「公正」を実現するために、全ての授業をPBLで行っていますが、どのようにしてPBLの有効性に気づかれたのでしょうか?
私も教育者として成長を続けているので、PBLに対する認識や考え方も変化しています。ですので、正確に当時のことをお伝えするのは難しいのですが、教員人生の初期は、学習への熱意や、生徒やコミュニティへの深い思いはありましたが、PBLの本来の可能性や影響力については認識できていませんでした。あくまでPBLは生徒にコンテンツを教える上で非常に効果的なツールとして捉えていました。
そして、長年その考え方でした。生徒が実践を通じて協働する際には、より多くのことを学べると考えていました。実際にそうだったと思います。しかし、私はやがて別の側面にも気づき始めました。
プロジェクトの過程を通して、生徒一人ひとりの姿を観察することで、彼らの本質を知ることができたのです。私が手を離せば離すほど、生徒たちは自分らしさが出せるようになり、本当の姿を見せてくれました。そこに大きな影響があることに気づいたのです。
——PBLの有効性について、認識に変化があったのですね。
当初は、プロジェクトの成果物の見た目や完成度など「結果」に魅了されていたので、プロジェクトの管理に余念がありませんでした。また、結果の重要性をとても強調していました。しかし今では、そういった結果に対する考え方が変わり、プロセスこそが重要だと考えるようになりました。
時折生徒たちに、「私には製品は必要ありません。プロセスが必要なのです」と伝えています。なぜなら、プロジェクトを通して私たちは彼らについて学び、彼らは自分自身について学び、コミュニティについても学び、それぞれがお互いにつながるからです。
最終的には、そこで自分自身との関係性を含む、周囲とのより深い関係性が育まれます。多くの生徒が自分自身との関係性を育めておらず、自己肯定感や自己効力感が低い状態にあります。そして、学校はまさにこうした生徒の状態を映し出す鏡なのです。
このように私の考え方は変化してきました。だからこそ、私は学校という組織に教員ができるだけ長く勤められるようにした方がいいと考えています。教員が入れ替わると、彼らのプロジェクト学習に対する認識が初期の段階に戻ってしまう可能性があるからです。
つまり、若い頃の私のように「プロジェクト学習は、コンテンツ学習に効果的な手段にすぎない」と考えてしまうのです。私が望むのは、15年、20年経った先の段階、つまりコンテンツは単なる一つの要素にすぎず、むしろ生徒を意義深く関与させ、能力を育み、学びを民主化し、生徒自身が地域社会を変える存在になれるようなツールとして活用することが大切なのだと、思うようになってほしいのです。
生徒のあらゆる行動は、私たちへのメッセージ
——先生たち同士も仲間であることを大切にしているように感じました。そのあたりはいかがですか?
私たちは、生徒の教育はもちろんのこと、先生同士の対話的なコミュニケーションにも着目しています。この信頼関係をどのように維持していくかは重要な課題です。
ハイテックハイでは、教員間の同僚性に非常に高い価値を置いています。新しい先生を採用する際、先生だけでなく生徒も候補者と話をして、最終的に私たちのコミュニティに加わってもらえる人物かどうかを確認します。なぜなら、私たちの仕事の共同実践者としての役割が期待されるからです。
多くの学校では、先生がそれぞれ孤立して独自の実践を行っていますが、ハイテックハイは違います。それぞれの先生の自律性は尊重されつつ、自身の実践を共有し、他者との協働も求められます。たとえ教授法が異なっても、互いの方法を敬意を持って受け入れるのです。
——互いを尊重されている様子は、数日間取材させていただく中で、私たちにも伝わってきました。
ハイテックハイには、お互いの価値を認め合う、強固なコミュニティ意識があります。一人ひとりの個性が尊重され、それでいて全体として結びついているのが特徴といえるでしょう。
ここでは、他の先生と異なるやり方をしていても、咎められたりすることはありません。先生の自律性はちゃんと大切にされなければならないと思われています。ですから同じ方法で教えなければならないということもありません。
つまり、私たちは完全に異なるやり方で教えることができるということです。しかし、私はそのやり方がその先生にとって生徒との関係を築いていくための効果的な方法であると信じています。実際に私たちは、皆異なるアプローチを持っています。この校内にはさまざまなスタイルがあり、誰も同じようになろうとはしていないのです。
——先ほど教員が手を離せば離すほど、生徒たちは自分らしさが出せるようになり、本当の姿を見せてくれるというお話がありました。手を離すことで、一見やる気がないように見える生徒もいるのではないかと思います。そのような場合のコミュニケーションで工夫されていることはありますか?
生徒たちの見えている行動だけでなく、その行動の背景に思いを馳せ、自分のジャッジを抜きにしてコミュニケーションをしていくというのは非常に難しいですよね。
例えば、学習体験やプロジェクトをデザインするとき、意味のあるものとなるように慎重に設計し、楽しく魅力的なものを考え抜いて作り上げたとします。それでも生徒が全然のってこないということもあるわけです。友達に会いに外へ出て行ってしまったり、スマホをいじったりするかもしれません。
そういった状況下では教員としての自尊心を保つことが難しく、「なぜこの学びを好まないのか?」と考えてしまうこともあると思います。そして思わず、「教員が正しく、生徒が間違っている」と感じてしまいます。
そういったときに私がいつも思い出すようにしているのは、「生徒のあらゆる行動は、私たちへのメッセージ」だということです。
生徒がその作業にのめり込んでいるなら、それは生徒が学びにインスパイアされ、その学習機会が生徒の興味や情熱と合っているということを意味しています。反対に生徒がスマホをいじったり、うろついたり、他の生徒の邪魔をしたりするときは、「この課題にどのように取り組めばいいのか分からない」という私へのメッセージだと捉えています。
——ついつい生徒たちの行動に反応的にコミュニケーションしてしまいがちですが、生徒のどんな行動も、自分へのメッセージだと捉えていらっしゃるんですね。
教育者は、これらの生徒の行動は「贈り物」と見るべきだと思います。コミュニケーションの贈り物であり、これは生徒が私たちに何かを伝えているということです。したがって、行動は対話の始まりです。これは非常に重要なことだと思います。
なぜなら、多くの教育機関では、そのような生徒がすぐに問題児と見なされがちだからです。そして、「問題がある」と言われると、子どもはそれを信じ込み、問題を起こす子としてのサイクルが永続することになります。最初は単にその学びにどうフィットするのか分からなかっただけなのに、迷惑であり学習の妨げとなる人としてみなされていくようになり、実際にそうなってしまうということです。
——問題児という見方を先生や学校がしてしまうことで、生徒の人生を変えてしまうような事態にもつながっていくイメージが湧きました。
私が考えるに、生徒が学びに深く取り組めていない場合、それは彼らの性格によって起こっているのではなく、彼らがこれまでに経験した学習体験によってそうなってしまったのだと思います。
そして最終的には、彼らは「自分は学校にはフィットしない人間だ」「学校には居場所がない」「学校ではうまくやれない」と思い込むようになるのです。
だから、「学習体験をやり直す」必要があると思います。ただ、この状況を高校段階で解消していくのは難しいのです。私もできる限り「やり直す」ように努力しています。主に会話を通じてそれを行っていますが、立ち止まって、「どうですか?」と言えることが重要だと思います。
——ここまでお話をうかがってきて、SEL(社会性と情動の学習)も大切にされているように感じました。
社会性と情動の学習やその考え方の多くが、私たちの考え方と非常に近いと思います。
関係性というのは学びにおいて非常に重要な要素であり、生徒の感情は本当に大切に扱われる必要があります。情熱、興味、好奇心は全て感情です。感情と人間関係、そして関係性を学習から切り離すことはできません。
私はプロジェクトを基盤とした学校運営をしているわけですが、プロジェクトは単なる道具です。プロジェクトに取り組む経験の中で人間関係を築き、能力を高め、世の中を認識する方法を磨き、アイデンティティを形成していきます。それら全てがプロジェクトを通して起こるのです。
ハイテックハイの学びの4つのステージ
——Johnさんが教育者として大事だと考えている、学びの4つのステージについてもお話をうかがえますか?
学びの4つのステージは、実際に私が教育者としての過去20年間で経験してきたことでもあります。先ほど話したように、私のキャリアの初期は、学習デザインの焦点が学習コンテンツにあたっていました。生徒がどのようにしたらもっとたくさん学べるか?そこにしか焦点を合わせていなかったのです。
次第にもっと大切な側面が学びの経験や学習デザインにあるということに気がつくようになりました。つまり、たくさんの魅力的なコンテンツや、非常に意義深くワクワクするようなプロジェクトがあっても、生徒がそのプロジェクトに自分ごととして捉え、真摯に取り組まない場合、彼らは成長や学びを経験することはありませんでした。
そこで私は、生徒が当事者意識を持って真摯に取り組むかどうかが重要なのだと気づき始めました。そして、どのような要因によってそれが阻害されるのかについて多く考えるようになりました。
——どのような阻害要因があるのでしょうか?
多くの学生は、学校の外に障壁があります。例えば、社会経済的な障壁であったり、歴史的な障壁であったりします。これらの障壁が、彼らを「学ぶことができる存在である」と認識したり、「学校に通って学びの経験を楽しむことができる人」として認識するのを阻害します。
また学校の中にも、学習体験の質を左右するものがあります。私は、生徒がのめり込むようにプロジェクトに参加することが重要であり、学習デザインはそこで起きる学びに没頭できるように設計されていることが大切なのだと気づきました。
生徒が「さて始めましょう。ここでやることにワクワクしています」と言える状態になって初めて、一緒に学ぶ土台ができたことになります。それが「より深い学びを促す条件を整えることで生徒が学びに没頭する」という第1のステージです。この段階になると次にどんな能力を育んでいったらいいかを考えるようになります。
——第2のステージは「自分と社会にとって意義のあるコンピテンシーを培い、発展させる」ですね。
私たちは実際の社会を見ながら、「どのような能力が生徒にとって必要なのだろうか。生徒にとって卒業しても意義のある学校での学びとはどんなものだろう。卒業後に大学や社会で生産性の高い一員としてやっていけるために何を身につけていたらいいのだろう」と考えます。
学びの第2ステージは、これらの育んでもらいたいと考える能力を開発する学習内容を整えます。現実世界とつながっている能力に関して理解をし、意味のある学習内容を準備する必要があります。
そして第3のステージは、「学びを民主化する」です。生徒に真剣に取り組む下地ができ、現実世界と関連する意義深い内容を学んでいたとしても、それが完全に教員主体で進められ、学習経験が完全に教員のみによってデザインされ、生徒はそこで何をどのように学ぶかについて、発言権も影響力もないことがあるわけです。
そのような場合でも、彼らは真剣に主体的に取り組むかもしれないし、意味のある内容を学ぶかもしれません。しかしそのやり方では、生徒の情熱や興味、個性を生徒から奪ってしまう可能性があります。
学びの第3ステージになると、生徒は教員を学習体験を設計する上での対等なパートナーと捉えます。そして自分たちの学びを自分の健康、幸福、興味、情熱につながる方向に導いていくのです。
学びを民主化する方法とは?
——具体的にどのように学びを民主化しているのでしょうか?
これを行う方法はさまざまで、大きな方法から小さな方法まであります。
おそらく最も重要で影響力のある方法は、生徒とプロジェクトを経験しているときに、彼らがどんなタイプの作品に情熱を持ったり興味を持ったりするのか、どのように環境設計をすると成功するのか、あるいは失敗するのかを常に観察することです。
私はいつも生徒から大きな影響を受けています。そのため、私の全てのプロジェクトデザインは、以前に教えた全ての生徒を主要な影響力ある人物としてデザインしています。
もっと直接的な方法として、生徒と一緒にプロジェクトを設計したり調整したりすることもあります。生徒を招いて、プロジェクトを見てもらい、プロジェクトについてどう思うかを聞くということです。そして年度の初めに生徒とプロジェクトを共有する際にはいつも、「このプロジェクトは皆さんのフィードバックを経て、設計が完了します」と伝えます。
——生徒の声を大切にしてプロジェクトをデザインされているのですね。
以前、ボートを作るプロジェクトで、ある生徒が私にフィードバックをくれました。
私は全ての生徒がボード作りを楽しんでくれると思っていたのですが、ある生徒が「私はこのボートを作ることにあまり興味がありません」と言った後、続けてこう言ったのです。
「私はPodcast(ポッドキャスト)に興味があります。そして、私がしたいことは、Podcastを作成し、ボート、アウトドア、アドベンチャーに関する経験を持つ人々にインタビューすることです」と。
私が「それは素晴らしいアイデアですね」と告げると、彼女は実行に移してくれました。
結局、私の指示通りにボートを作るよりも、彼女のプロジェクトへの貢献はずっと大きくなりました。私の提案に対して、生徒が自分で「こうしたい」と言い出した場合、その生徒は自分で提案した内容を推進していきます。ですからプロジェクトを設計する際に、余白を残すことは重要です。そうすることで、より素晴らしい選択を生徒たちがするチャンスが生まれるのです。
——プロジェクトをデザインする際の余白の重要性を強く感じました。
プロジェクトを収束させるのではなく、発散で終わるようにしています。だから、私たちはしばしば収束から発散に転換する部分から始めます。つまり、皆で一緒に同じものを作ることで、道具の使い方を学び、コミュニティを築く方法を学ぶのですが、最終的にはそこでの学びをもって、できるだけ多様な方向に進んでいくようにしたいのです。
したがって、民主化された学習は扇のように多様な方向に広がるような形であるべきです。一方、民主化されていない学習は、全く同じ結末、同じ焦点を持つことになります。
——最後の第4のステージは、何でしょうか?
第4のステージは、「生徒が自分の知識を使って、地域社会にインパクトを与える」です。
第4のステージでは、生徒が学習を学校内でのみ起こるものと見なさなくなり、それが学校の義務の一部であるために学ぶのではなく、学校と学校外の世界との間で調和するものとして学習を見るようになります。それが実際に彼らが行っていることであり、学校という枠組みを超えて行い、創造し、参加することが重要であり、コミュニティに影響を与えるものであると認識するようになります。
そして、彼らは自分自身を、コミュニティでものごとを変えることができる人、コミュニティの状況を改善できる人、コミュニティの重要なメンバーになれる人として自己を見ることができるようになるのです。
——学びの4つのステージを通して、生徒が変容していく様を想像することができました。
学びの4つのステージをまとめると、第1ステージは、生徒が学びを自分ごととして捉え、自分自身を学習者として見る機会を与えることです。それは学習者としてのアイデンティティの変容です。
第2ステージは、第1ステージを利用して関連する能力を伸ばしていくこと。第3ステージは、学習を民主化し、生徒と教員の共通の経験とすること、また同じ方向性を共有すること。そして第4ステージは、その学びを学校の枠を超えて統合し、コミュニティと協力してコミュニティを改善するということです。
コントロールを生徒と共有すれば、プロジェクトは良くなる
——これまでたくさんのプロジェクトに取り組まれたと思うのですが、印象に残っているプロジェクトはありますか?
興味深いのは、最も印象的だったとされるものに対する認識です。
私たちのプロジェクトが紹介される場合、さまざまな雑誌などに掲載される写真を通してであることが多いです。生徒が作ったボートやキャンピングカーの写真が出ていたりするんですね。そういったものは目につきやすいですから、称賛されることも多いです。
しかし、おもしろいことに私がこれまでに行ったプロジェクトの中で成功したと感じているプロジェクトは、食品の発酵文化に関するものでした。
——食品の発酵文化ですか。
日本では納豆、ブルガリアではヨーグルト、ドイツではザワークラウト、韓国ではキムチ、フランスではサワードウブレッドなど、世界中でさまざまな発酵食品があります。ピクルスなど、多くの異なる方法で食品を発酵させる方法があります。
プロジェクトでは、発酵の微生物学的プロセスをよりよく理解しようとしました。また、世界中で食品保存の方法として発酵を用い、それらで健康を促進しようとしてきた文化を理解しようとしました。
私自身がそのプロジェクトを楽しめたのは、プロジェクトを始める前の段階で、私が知らないことがとても多かったからだと思います。毎日、生徒たちと一緒に学んでいる感覚があり、それは本物の学びであると感じました。
生徒たちはレシピを作ったり、本を作ったり、顕微鏡で微生物のプロセスを観察するグループもありました。「発酵コレクティブ」というタイトルで展示会を企画し、コミュニティに参加してもらうために呼びかけたグループもいました。
——まさに収束から発散していますね。
プロジェクトを始めたとき、生徒たちに「クックブックを作るよ」と言って、テンプレートを作成して生徒に説明したんです。「ここにタイトル、ここに画像、ここにレシピ、そしてここにインタビューが入るかもしれません」と私は言いました。
そうしたら一人の生徒、多分彼女は難しい生徒と見られがちかもしれませんが、彼女が「これはとてもつまらない」と言いました。「先生は、クックブックを作れと言うけど、これじゃ全然自分の個性が出せません。きちんとして見えるかもしれませんが、自分を表現するものにならないと思います」と。
そこで私は彼女に、「じゃあ、このプロジェクトのリーダーをやってみない?」と聞きました。彼女は「いいよ、やる」と言って、それを引き受け走り切ったのです。彼女は全ての生徒にアートを創造させ、そのアートを集めて大きな箱に入れました。
彼女はそのアートを取り出して、それをノートのページに配置しました。彼女は生徒たちにレシピも書かせました。それは乱雑でしたがクリエイティブなものでした。
最終的には、私が彼らに作らせようと思ったクックブックよりも100倍良いものとなったのです。この経験から私は民主的であることの影響の大きさを学びました。その生徒は非常に手がかかる生徒から、最高の生徒になりました。
——まさに学びの4つのステージを辿っていますね。
彼女は仕事の中でリーダーシップを発揮し、私にとってそれは私の教育やPBLの経験において転機となる瞬間でした。「自分がコントロールを多く持つとプロジェクトは悪くなる、コントロールを共有すればプロジェクトは良くなる」と気づきました。
この話をすると多くの人が、完全にコントロールを生徒に譲ると解釈してしまうのですが、そうではありません。それでは生徒に責任を負わせすぎてしまいます。「好きにやっていいよ」ではなく、民主主義的なアプローチを取りながら、教育者として学習体験をサポートし、生徒と責任を共有することで、より良い結果を得ることができると考えています。
何も作らなかったプロジェクト
——プロジェクトを通して、先生たちの教育観もアップデートされているように感じました。
私が行ったわけではないのですが、お気に入りのプロジェクトについて話してもいいですか?
それは、ハイテックハイで行われたプロジェクトの中で、最も力強いプロジェクトの1つだと思います。そして、なぜ私の記憶に残っているかというと、学生たちが「何も作らなかった」からです。
私たちはしばしば、生徒が物理的に何かを作らない限り、それがプロジェクトにならないと考えがちですが、このプロジェクトは違いました。このプロジェクトはピート・ジャナが主催した「カリフォルニア・イノセンス・プロジェクト」と呼ばれるプロジェクトで、法科大学院と協働で行われました。
——どのようなプロジェクトなのでしょうか?
アメリカでは多くの人々が、誤って投獄されることがあります。彼らは無実なのに刑務所にいるのです。しかし、冤罪で刑務所にいる人が多過ぎて、彼らのケースを調べる人が十分にいません。そのため、生徒たちが実際に刑務所にいる実在する人たちの事件を取り扱っていました。
そして、その人たちが再審を許されるべきかどうかを判断するために、あるいは審議の結果彼らに下されている判決が再検討されるべきなのかどうかについて取り組んだのです。そのため、それは単なるフィクションではなく、実際のことでした。生徒たちはこれらのケースを読みましたが、それについて他人と話すこともできませんでした。全ての情報を秘密にしなければならなかったからです。
彼らはその人々に再審を受ける資格があるかどうかを決定するために、法科大学院と協力してその人々が再審に値するかどうかを決定しました。
——まさにハイテックハイが大事にされているAuthenticな学びの場ですね。
本物かつ挑戦的で、影響力があると思いました。昼食時にサッカーボールを蹴り回して、狂ったように振る舞っている生徒たちが、このプロジェクトで非常に真剣になるのを見たのですから。
彼らは資料を読みながら、自分たちがこの非常に現実的な状況にどれほど重要な存在なのかに気づいたのです。とても力強いプロジェクトだと思いました。
自分が最良だと思う学びの場をつくればいい
——Johnさんが20年以上ハイテックハイに勤める中で、ブレイクスルーした瞬間はありますか?
教員として私が経験した最大のブレイクスルーの一つは、キャリアの初期にクイズやテストを実施していたことです。学生時代にクイズやテストを受けていたので、私も生物学の教員として、何も疑わずそういうものだとクイズやテストを行っていましたし、それが重要なことだと考えていました。
ある日、生徒たちにテストを配布しているときに、私は心の中で生徒たちがテストでどのような成績を取るかテストをしなくても分かるような気がしたんです。この生徒はBを取るだろうとか、この生徒はCを取るだろう、この生徒はAを取るだろうと、その生徒たちの学習者としての姿を知っていたから予想がつきました。その瞬間、自分に問いかけました。「なぜこんなことをしているのだろう?なぜ私はクイズやテストを行うのだろう?学習者たちの姿とそのあり方を知っているのに」と。
なぜなら、テストやクイズは人々に多大なダメージを与える可能性があるからです。良い成績を取る人にとっても、それがダメージになることがあります。実は私自身、高校時代にそのようなダメージを受けたことがあります。
——それはどのようなダメージだったのでしょうか?
私は「A評価の生徒だから、ここから落ちるわけにはいかない。ここに留まらなければならない」と思って、「A評価の生徒」であることにとてもストレスを感じていました。そして、BやCの評価を取る生徒も、「これが自分の姿だ」と思ってしまいます。
だからこそ、私はクイズやテストが私の生徒たちにダメージを与えるものでしかないと感じました。また、クイズやテストは生徒たちがどのような学習者なのかについて新しい何かを教えてくれないことを悟りました。生徒がどのような学習者なのかは、プロジェクトで一緒に行う作業を通して知ることができます。
例えば、生徒がときどき、ものごとを理解するのに苦労していることや、コンテンツを記憶する力が働いていないことを知っています。しかし、クイズやテストがそれに対して、「あなたは、これが得意ではない」と伝えるべきではありません。私たちは彼らが何に長けているかを見極め、彼らの成長をサポートし、彼らを引き込む方法を考えるべきです。クイズやテストで何度も何度も「あなたは、学習が苦手だ」と伝える必要はないと思います。
だから私にとって、プロジェクトベースの学習において大きなブレイクスルーは、自分が学習者として経験した学校の学習プロセスや構造を繰り返す必要はないという気づきでした。そして、学び手である子どもにとって意味があり、影響が大きく、最良だと感じることを自分自身が創造できるということに気づけたことはとても大きな転機でした。
——学力という1つの物差しだけで生徒を測ることに違和感を持たれたのですね。
自分が最良だと思う学びの場をつくればいいんだと思えたとき、とても解放された感じがしました。同時に、それは単に楽しいことをするという意味ではありません。学校に行って「遊ぼう」と言ったり、「ただ遊びます」というわけではありません。
私は挑戦的で意味や影響力があり、記憶に残る、公正な学習体験の一部でありたいと思っています。これからの教育の姿を書き換える人間になれると思いました。
このようにして、私は学びにとって何が良いものなのかを常に考えるプロセスを始めたのです。ちなみにもう1つ、私には忘れることのできない意義深い経験があります。
——それはどのような経験でしょうか?
もう1つの意義深い経験は、非常に早い段階で起こりました。
私はメンターと一緒に外出し、他の教育者が話すのと同じように生徒たちの間違った行いについて不平を漏らしていました。例えば、「生徒が携帯電話を手放さない」「話すのをやめない」「私をイラつかせる」といった具合です。ハイテックハイにくる前の前任校では他の教員たちがそのように話しているのを聞いていたのです。
しかしメンターは、「あなたが何か違った方法を取ることができるかもしれないと考えたことはありますか?」と言いました。私にとってそのメンターは、教員が適切にまたは正しく学習体験を設計できていない可能性について初めて提案した人物であり、生徒たちが苦労しているのは生徒たちのせいではなく、教員の学習体験の設計に原因があるという考え方を教えてくれた人でした。
——そのフィードバックは胸にきますね。
このフィードバックは私が今までに受けた中で最も役立つフィードバックでした。「ああ、そうか、問題は生徒ではない。生徒は本質的には良いことをしたいと思っている。学習デザインがその人の行動や学習状況内での振る舞いを変えることがある」と気づいたのです。
その後、私は自分がどのように学習を設計して、全ての生徒を参加させるか、そして公正な参加を促すかを考えることができるようになりました。それ以来、より多くの人々がこの学習体験に参加できるように、この学習をどのように変えるかを考えることに夢中になりました。
本質的な問いは、北極星
——ハイテックハイが大切にする本質的な問い(Essential Question)の特徴についてお話を聞きたいです。
教室に入って生徒に「何を学んでいるの?」と尋ねるところから想像してください。そこで2つの異なる反応が得られるかもしれません。
まず1つは、生徒はその瞬間に何を学んでいるかを答えるというパターンです。もう1つは、彼らの目指している学習の向かい先、つまり最終目標やその方向性は何かということです。
教育現場でよく起こることは、教員や教育者が学習がどこに向かっているかを完全に理解している一方で、生徒にはそれらが共有されていないという状況です。教員や教育者は、学習体験全体について非常に詳しい理解を持っています。しかし、私たちは生徒とそれを共有することは多くありません。
生徒たちは単に学校に来て、黒板に書かれている内容を見るだけです。「今日はこれをする」という指示を受け、それを実行し、家に帰って翌日また来て、「今日は何をするの?」と尋ねます。そして、彼らの学びは始まったり止まったりを繰り返します。
だから本質的な問いは、北極星のようなものであるべきだと思います。
——北極星ですか。
重要なのは、生徒自身が毎日何に向かって学んでいるかを知っていることです。
例えば、私の生徒たちは今、さまざまな体験をしているのですが、彼らは自分たちが「健康」について学んでいるということを知っています。彼らは、自分のコミュニティへの食糧提供が自分の健康と環境の健康にどのように影響を与えるかについて学んでいます。
このように本質的な問いというのは、彼らが学んでいる方向を知るアンカーポイントやゴールのように機能します。そして、それが生徒が学習プロセスにもっと関与するのを助ける傾向にあると思います。そうでなければ、彼らはただその日のアジェンダをこなすように学んでいると感じてしまいます。
今日はこれを学んでいますが、なぜかは分からないといった状態です。こういった状況では、翌日になると学びを組み立てるのが難しくなります。でも、もし彼らが本質的な問いや私たちが「駆動する質問」と呼ぶものを持っていると、学習体験に参加する中で、つながりを見つけたり、学習経験に文脈を見つけたりするのに役立ちます。
建設的な批評は、PBLと同じくらい重要
——日本の先生からは建設的な批評(Critique)が難しいと聞きます。ハイテックハイの生徒たちは自然とできるようになるのでしょうか?それともやり方を学ぶのでしょうか?
そうですね、建設的な批評はリフレクションに非常に似ていると考えます。
リフレクションは、個人として自分のプロセスを振り返り、そのプロセスを建設的に批評することであり、また建設的な批評は仲間があなたの作業を見てフィードバックを提供できることでもあります。また、リフレクションや建設的な批評、フィードバックは、学習の軌道を変えます。
もし単にAからBまで学ぶだけなら、学ぶだろうし成長もしますが、建設的な批評やリフレクションの機会を作ることで、その瞬間に何かが触媒となり、「変化のためのアイデアを聞いている」「変化のアイデアを考えている」と言える瞬間が生まれ、非常に異なるレベルまでレベルアップします。
さらにもう一度建設的な批評とリフレクションの機会があれば、それがより深い学びを可能にします。だからこそ、これは教えなければならないし、経験しなければなりません。ちなみに私たちは、建設的な批評の考え方と、批評の文化の両方を紹介しています。なぜなら、それらは2つの異なるものだからです。
——建設的な批評と、批評の文化ですか。
建設的な批評には、たどることのできるステップバイステップのプロセスがあります。そして、建設的な批評の文化というものもあります。その文化においては、安心安全であるがゆえに、自分の作品を共有し、素直で正直になることができます。皆丁寧にフィードバックを提供してくれます。
なぜならあなたの学びを大切に思っているからです。ですから建設的な批評は間違いなく、学習の軌道を変えるのに重要であり、早期に教えられ、学ばれなければならないものです。非常に早い年齢から導入される必要があります。
4〜6歳の頃から建設的な批評の言葉を学ぶことで、16歳、17歳になる頃には、流暢に建設的に批評することができるでしょう。この頃になれば、ほとんど毎日がある種の建設的な批評の機会となるわけですからね。
——そんなに早い段階から練習をしているんですね。
だから私たちは学びをできるだけ利用可能で、アクセスしやすくしています。つまり他の人が窓から中をのぞき込んで、自分たちが何をしているかを見ることができるようにしているということです。
それ自体が一種の展示会です。学びを周囲と共有できるものにするということは、建設的な批評に対してオープンである文化を作ります。
ですから、建設的な批評は、PBLとほぼ同じくらい重要だと言えますね。PBLは建設的な批評なしでは存在し得ません。そして、プロジェクトを計画する際に欠かせない2つの要素は、学びをコミュニティと共有する展示会と、そのプロセス内で存在する建設的な批評とリフレクションです。
全てが変わるのを待つのではなく、何かを変えてみよう
——Johnさんは現状の教育の課題について、どのように捉えていらっしゃいますか?
教育の多くが、全てを同じに保つ方法を見つけることを目標にしていますが、それが教育を時代遅れにしてしまう原因だと考えています。柔軟でなければなりませんし、時代に合わせて変化するべきです。
そして、教育の変化を促進する最良の方法は、できるだけ現場に近づくことです。しかし、教育の方針を決めたり、改革を推進する人たちの多くが、何年も教室から離れている管理的な立場にいる人です。だから教室から先生たちが飛び出して、経験や実践、視点を共有することは非常にインパクトが大きいと思います。
この方法はブライト・スポッティングと呼ばれ、最も効果的な実践に目を向ける方法です。つまり、お互いの教室で今行っている非常に効果的な取り組みを皆で共有するのです。先生たちが非公式に集まり、実践や視点を共有することは、とても重要なことだと思います。
——Johnさんは「先生」という存在の役割をどのように捉えていらっしゃいますか?
私は先生を「学び手」として捉える考えが好きです。だから、先生は「パートナー・ラーナー」という言葉に言い換えることができると思います。
でも同時に、先生はメンターであるという考えも好きです。私たちは学び手であり、メンターでもあるということです。メンター、学び手、または先生としての私の最大の目標は、学校が生徒にとって意味のある存在となることです。
ですが実際には、学校は全ての時間を使って生徒に「良い生徒(いい子)」になるように促しています。これでは生涯にわたって学び続ける学習者になるような機会を奪ってしまいます。
考えてみると、学校や教育の多くのプロセスは取引のようです。教員は宿題を出し、生徒はそれを提出する。すると教員は生徒にポイントを与え、生徒は宿題をすぐにゴミ箱に捨てる。これが学びでしょうか。
私は学校が、生徒が「いい子」になるための習慣を身につける場所ではないことを望んでいます。私は、学校が学んで成長できる場所であると生徒自身が捉えられるような場所であってほしいと願っています。
——最後に、このインタビュー記事を読んでいる日本の先生たちに伝えたいことはありますか?
私たちはよく「全てを変えない限り、何も変えられない」と思ってしまいます。ですから、私だけでなく、他の先生や生徒のインタビュー記事を読んで感化されても、現実を見たときに難しさを感じるかもしれません。「それはハイテックハイだからできたんだ」と。もちろん日本とは状況が全く異なることでしょう。
でも、大切なのは先ほども述べたように「関係性の質」なのです。日本の学校でも関係性の質を高めることはできます。日本でも学びの中で関係性に目を向けることはできますし、日本でも社会と関連の深いことを扱うことはできると思います。
プロジェクトに取り組まなくても生徒を意義深い学びの体験に浸らせることはできます。ですから、「全てを変える必要はない」ということです。変えられる1つのことを考え、「これなら変えられる」と思えばいいのです。
実際、私がここでやっているのも同じことです。私は常に「変えられる1つのことは何か」と考え、小さなことを少しずつ変えています。新しいことを試してみること、そして常に他の人とその経験を共有することが重要です。
例えば、何かを変えてみたけれどうまくいかなかったということも、貴重な経験です。だから、全てが変わるのを待つのではなく、何かを変えてみましょう。教育者として、これからずっとそれに挑み続けてほしいです。
常に「試せる1つのことは何か」と考えてください。それが私の願いです。
〈取材・文・写真:先生の学校編集部〉