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演劇的手法で学びが変わる?架空の世界に入り込み、表現と理解を繰り返す「なってみる学び」の可能性

演劇的手法で学びが変わる?架空の世界に入り込み、表現と理解を繰り返す「なってみる学び」の可能性

2020年に発行された『なってみる学び 〜演劇的手法で変わる授業と学校〜』(時事通信社)。この本では、公立小学校における演劇的手法を切り口とした授業改善に関する研究が、実践者と研究者の視点からまとめられている。

同書によると演劇的手法を授業改善の切り口とした結果、子どもたちの学び方が変化することはもちろん、研究を通して教員同士の関係性も変化したという。

架空の世界に入り込み、他者の視点に立つ「なってみる学び」は、どのように現場で実践されているのか、どのような価値があるのか。

2019年に演劇的手法に出会って以来、実践者や研究者に学びながら実践を重ねられている、立命館小学校 教諭の吉永かおりさんに話を聞いた。

写真:吉永 かおり(よしなが かおり)さん
吉永 かおり(よしなが かおり)さん
立命館小学校 教諭

立命館大学卒業後、商社で勤務。ボランティアで地域の子どもたちとの読書会「本の森」を主宰、通信制大学で小学校教員の免許を取得し、教員の道へ。大阪市の公立小学校を経て2021年より、現職。


テキストの背後にある、真に迫る学びを

私が国語の授業を行う際に、子どもたちの可能性を広げる手法の一つとして「演劇的手法」を取り入れています。

演劇と聞くと、学芸会のようなものを思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。実際はそれだけではなく、子どもたちが主体的に、身体を動かしながら物語の世界に入り込むことで、言葉以外の感覚も使って演劇的に学ぶ方法もあり、私が用いているのはそれです。

例えば学芸会の劇は、表現を発表することがゴールになります。一方、演劇的手法の場合は、文章を読み取って表現して、表現したことを振り返って考え、また表現して…を繰り返します。

表現することが目的ではなく、言葉以外の感覚で書かれていないことを感じ取り、表現を通して理解を深めていく学びです。

NPO授業づくりネットワーク理事長の石川晋さんが、私の教室で演劇的手法を用いた授業をされたことがきっかけです。

最初にその授業を見たときは、「これが国語の授業なのだろうか?」と戸惑いました。子どもたちが国語の本文には書いていないことを演劇の中で発言していたからです。そんな授業を見て、考えの根拠を常にテキストのどこに書かれてあるかと問うていた私はこれがどのような学びにつながるのだろうと思っていました。

しかしその後、石川先生に紹介していただき、2019年に「学びの空間研究会」に参加し、演劇的手法を学ぶようになりました。

この研究会は、東京学芸大学教職大学院 准教授の渡辺貴裕先生が主宰する、演劇的手法を用いた授業の可能性を追求する研究会です。渡辺先生は京都の小学校で働いていた藤原由香里さんと一緒に『なってみる学び〜演劇的手法で変わる授業と学校〜』を書かれた、演劇的手法の研究者です。

自分でワークショップに参加したり、国語の授業で実践を重ねたりするうちに、テキストだけでは読み落としてしまうような物語の設定や背景にあるもの、説明文に込められた作者の意図などが、「なってみる」ことで見えてくるようになりました。

例えば『ごんぎつね』の実践を紹介します。ひとりぼっちのごんぎつね・ごんは、森から村にやってきてはいたずらばかりしていました。ある日ごんは、ほんのいたずら心で、村人の兵十(ひょうじゅう)が捕まえた魚やうなぎを逃してしまいます。しかし、兵十の母が亡くなったことを知り、ごんはいたずらを後悔することに。そこで償いの気持ちから、兵十の家に毎日食べ物を届けるようになります。

ある日、ごんが家の中に入っていくのを見かけた兵十は、火縄銃でごんを撃ってしまう。そのとき土間に転がっていた栗を見て初めて、「ごん、お前だったのか。」という言葉をつぶやくと、ごんは目をつぶったまま頷きます。

授業では、この一連のシーンについて、ごんになってみるという学習をしました。

文章だけを読んでいるときは、「ごんはいいことをしていたのに、なぜ殺されないといけないのか。かわいそうだ。」という感想が多く出てきました。

しかし演劇的手法を通してごんになってみることで、兵十に声を掛けてもらえたときのごんは、撃たれたけれどもうれしかったんじゃないか、という発言が出るようになったのです。

ごんになって倒れていた子どもから「かけよってきた兵十の足音を感じてやっと気づいてもらえたのでうれしかった」との発言もありました。その立場に身を置くことで、子どもたちがごんの気持ちを実感した場面です。

演劇的手法を用いた授業を重ねていく中で、子どもたちが振り返りで、物語や説明文で本当に伝えたかったことやさらにその奥にある真に迫るような感想を書くことがあります。

私は子どもたちと、作者でさえも書き得なかった地点にたどり着く学びをしたいと考えて、授業の中で演劇的手法を取り入れるようになりました。


先生たちも「なってみる」経験を

子どもたちが、今日の授業で何を考えていたのかを、先生方にも体験していただくためです。授業公開後の研究会では、その授業に対して指摘をし合うというスタイルが一般的です。

しかし先生方も子どもと同じ学びを経験することで、その日の授業で何が起きていたのかを追体験し、学習者の視点から授業を振り返ることでたくさんの気づきが得られます。そこでは教員経験の多寡には関係なく、自分自身の感覚が大切にされます。

詳しくは渡辺先生の『授業づくりの考え方』(くろしお出版)にありますが、私が公立学校で研究主任をしていたときにこのような形での討議会を取り入れると、事後検討会の雰囲気がとても良くなりました。

ベテラン、若手関係なく、笑顔が絶えない学びの多い時間になりました。

私は2つの点で変化があると考えています。一つは教員自身も物語の世界に入れること。これは6年生の国語で「海のいのち」を読んだときのことです。

この物語で、主人公の太一が瀬の主であるクエと対峙したときに、ふっと微笑む場面があります。そのクエとは、太一の父を殺した存在。それなのにクエに出会ったとき、太一はなぜ笑ったのか?と子どもたちとも話題になりました。でも、部屋を真っ暗にしてもりに見立てた棒を持って、大きなクエを目の前にした瞬間、私は「こんな大きいものに敵うわけがない」と思えてきて、思わずふっと笑ってしまったんです。太一になってみたことで、私の中に生まれた気づきでした。

もう一つは、「指導するー指導される」という関係性から抜け出すということです。

演劇的手法を用いた授業では、教室内で教員と子どもたちが「教えるー教えられる」という関係性から脱し、フラットな関係になります。また教員の研究会で子どもたちの学びを授業者と参観者が一緒に追体験することによって、研究会で「指導するー指導される」という関係性から、授業や子どもについて一緒に考える仲間になれると思っています。

2つ大事にしていることがあります。まずは心理的に安心安全な場を作ること。

演じるということは、ある一定の恥ずかしさもつきまといます。子どもたちは、真剣にやったことを笑われたくない。すると笑われたくないがために、わざと笑われるようなことをし始めることもあります。そんなときには、物語を読み解くために大切にしていることを何度も伝えています。

2つ目は、演劇的手法の授業は1人だけでやろうとしないということです。

授業では、演劇講師にプロの俳優・劇団衛星のF・ジャパンさんを迎え、授業のファシリテートをする私とで分担して取り組むことがあります。プロの俳優と一緒に教材研究をして、どんな授業を作るかを考えるのは、教員とは異なる視点から気づきをいただけるので、学びも大きいです。

文化庁の芸術家の派遣事業などを利用して俳優と授業をすることがもっと広がればいいなと考えています。

立命館学園の「グラスルーツ実践支援制度」という仕組みを使って俳優の近藤芳正さんをゲストにお招きしました。教材として読んだのは、「世界一美しいぼくの村」。この物語は、アフガニスタンのパグマン村に住む少年のお話です。

物語では、アフガニスタンの町の様子を演劇的手法で表現して考えました。また当日は、東京学芸大学の渡辺貴裕先生にも授業を参観いただき、研究会のファシリテーターを務めていただきました。研究会では、ご参加いただいた先生方と一緒に「なってみる学び」を体験しました。

演劇的手法は学び方の一つであって、本当に大切なことは教員が子どもたちに何を届けたいかを持っていることだと思っています。

私は、私の授業が少しでも世界平和に貢献できないかと考え仕事をしています。今回の授業であれば、テキストを読むだけでは感じ取りにくいアフガニスタンに住む人々の生活や思いを、自分がそこに身を置くことでより近くに感じられる。なってみることでアフガンが自分にとって大切な場所になる。その経験がもっとアフガンを知りたい、ひいては中東情勢を学びたいという原動力につながります。私が目指しているゴールは、いつもそこにあります。

物語を通して子どもたちと一緒にたどり着きたい場所をもち続けること、それが私にとっては「平和」であり、演劇的手法を授業で取り入れる理由です。


俳優&研究者の視点から見た、演劇的手法の価値

俳優の近藤 芳正さん(写真左)と、東京学芸大学教職大学院 准教授の渡辺 貴裕さん(写真右)にお話を聞きました。

子役の子どもに演技を教えたことはありますが、いわゆる普通の小学生と一緒にワークショップをするのは、難しさとおもしろさの両方がありました。

一番難しさを感じたのは、時間的な制約です。普段は演技について考える時間をたっぷり設けているのですが、授業となると45分。その時間内で場面設定を話し合ったり、どのように演じるかといったことを考えるとなると、少し時間が足りない感覚はありました。

一方で、私が普段大事にしている「演劇とはコミュニケーションである」という観点は、演劇的手法でもとても大事だと再認識しました。

演技を自分だけでするのではなくて、自分が何か相手に働きかけたら、どのように受け止められて、どのような反応が返ってくるのか?そこをじっくり味わうことこそが、自分の感覚を働かせて学ぶことだと再認識しました。

以前、ある会社の研修に呼ばれて「自社の生CMを自分たちで作ろう」というワークショップをしました。会社の場合だと、配役によって部下と上司が入れ替わったりして、関係性がフラットになっていきます。それがとてもおもしろいんですよね。だから私は学校はもちろん、一般の人が演劇をやることにすごく意味があると思っています。

昔ギリシャでは病気を治すために、病院と一緒に必ず劇場を作っていたことをご存知ですか?演劇を一般の方が観るだけではなく、演じることでも癒しを得ていたとか。学校で演劇的な学びをするのは、その延長線上のお話なんじゃないかとも感じています。

一言で言えば、架空の空間を自分の身体で感じるということですね。実際に目の前に起きていないことであっても、演じることを通して自分の心が動く。そこが一番大事な部分だと考えています。

今回の吉永さんの授業では、子どもたちはアフガニスタンのパグマンという見知らぬ町の様子を、その世界に入り込み、どんな音がするのか、どんな匂いがするのか、どんな出来事が起きていて、その出来事に対してその町の人たちはどのような反応をするのかを考えていきました。

町の様子を演劇的手法で表す時間では、テキストや挿絵などから、様子を理解し、演劇的手法を通して表現する。表現することで、自分自身や仲間の演技を通して、理解が深まる。さらにその気づきをもとにもう一度演じてみる。

このように理解と表現が相互に循環する点が、一番の特徴だと考えています。

まず先生たちに実際に体を動かして、なってみる体験をしてもらうことが一番いいと思って、授業研究会でも子どもたちと同じように「なってみる学び」をしてもらっています。

先生同士でやってみると、自分の感覚を働かせられるのでいろいろな考えが出てきます。身体を動かして、架空の世界を生み出すことで、あたかも自分がその経験をしているかのようになる。そして架空の世界を体感することで、自分の心が次第に動いていく。そんな瞬間を、まずはぜひ体験していただきたいです。

演劇的手法が目指すものを究極的に言うと、自分の感覚を働かせて考えること。手法だけを頭の中で考えるのではなく、常に自分の感覚を働かせる学びを大事にしてほしいと問題提起したり、活動が持つ本来の意味を考えてもらったりすることが、実践的研究者としての私の役割だと感じています。


〈取材・文・写真:先生の学校編集部〉