いじめを法的な視点から考える、弁護士先生による特別授業。学校では教えてくれない法的思考とは?
全国の小・中・高校と特別支援学校で2022年度に認知されたいじめの件数が、過去最多の68万1,948件に上った。学校現場におけるいじめ対策は待ったなしの状況だ。
そんな中、オリジナルのいじめ予防授業を多くの中学校や高校で実践するのが、教員免許を持つ異色の弁護士である真下麻里子さん。
弁護士としての専門知識を基に、子どもたちが法的思考を理解し、自分と他者の尊厳を守る視点を身につけることができる出張授業を展開している。一体どんな授業を行なっているのか、話を聞いた。
数学(中・高)の教員免許を持つ弁護士。全国の学校でオリジナルのいじめ予防授業や講演活動を実施するほか、教職員研修の講師も務めている。著書に『教師もできるいじめ予防授業』『幸せな学校のつくりかた―弁護士が考える、先生も子どもも「あなたは尊い」と感じ合える学校づくり』(教育開発研究所)、共著に『こども六法練習帳』(永岡書店)『ブラック校則』(東洋館)『スクールロイヤーにできること』(日本評論社)がある。TEDxHimi 2017「いじめを語る上で大人が向き合うべき大切なこと」はYouTubeにて公開中。
いじめは起きてしまうものだと考えよう
——真下さんは弁護士業務の傍ら、中学や高校に出向いていじめ予防の授業を行っているそうですね。
はい、この授業は私が理事を務めるNPO法人「ストップいじめ!ナビ」が行なっている活動の一環です。私がストップいじめ!ナビに参画した2012年頃は、まだいじめ防止対策推進法がなく、滋賀県大津市の市立中学校の生徒がいじめを理由に自ら命を絶ってしまった大津事件が前年に起きこともあって、いじめ問題に対する社会の関心が高まっていた時期でした。
先輩弁護士たちがいじめ防止に関する条例を作ろうとロビー活動に勤しむ中で、教員免許を持っている私は子どもたちにいじめ問題について考えてもらうような授業ができるかもしれないと考えて、授業プランを作ってみたことが始まりです。
子どもたちが弁護士と一緒にいじめの問題を法の視点から考え、法的思考を学ぶことでいじめの予防につながっていけばいいなという思いで始めました。
——いじめ防止の授業はどんなことを意識して設計されているのでしょうか?
身近な問題であるいじめを自分ごととして考えてもらうこと、そして法的な視点から考える「法的思考」について学んでもらうことにこだわって授業を作っています。
一過性のイベント授業にならないように、3〜4年で1セットが完結するプログラムになっていて、中高一貫校であれば中学1年生から高校1年生まで、年に1回のペースで毎年お邪魔します。
授業では身近に起こり得るさまざまないじめの事例をピックアップしていて、各事例の中に法的な視点を散りばめています。法的な視点について知った上で、「こういう風に考えていけばいいよね」という法的思考そのものを理解していくような授業になっています。
もちろん授業だけでいじめをなくしていくことは難しいので、いじめの前兆に早く気づいて行動できる子どもたちを育てることを目指しています。
——いじめを撲滅する方向ではなく、いじめは起きてしまうものという前提に立った上での授業なんですね。
その通りです。2013年9月に施行されたいじめ防止対策推進法は、大津事件が発端でした。実はこの事件が起こった学校は、「道徳教育実践研究事業」推進指定校でした。
第三者委員会が書いた調査報告書には「いじめ防止教育(道徳教育)の限界」という項まで設けられ、道徳をやっているから安心だと考えてはいけないという内容が書かれました。つまり、道徳教育によってできることとできないことがある、ということです。
子どもたちのいじめが増加する原因は、ストレスと考えられていますから、いじめを減らしたいのであれば子どもたちのストレスを減らすこと、風通しの良い教室にしていくなどの環境的なアプローチが不可欠です。心の問題だけで解決できるわけではないという前提をきちんと認識しておく必要があります。
そうした前提を基にいじめ防止対策推進法という法律が作られていることも考慮して、私たち弁護士に何ができて何ができないかを熟慮した上で授業を行っています。
いじめを予防するための授業とは?
——具体的な授業の内容を教えてください。
まず1年目は、いじめの定義を学びます。DVDを友達に貸したら傷がついて返ってきて、傷をつけた子が友達グループから仲間外れにされてしまったという事例を題材に、何が「いじめ」かを考えてもらいます。
私たちは、大人を含め、比較的簡単に「いじめダメ絶対」といったことを口にしますが、実はそれぞれが思い描く「いじめ像」は異なります。この事例をいじめと感じる人もいれば、いじめではないと感じる人もいます。そのままの状態で「いじめ」について議論をしたとしても、議論はすれ違ってしまいます。
ですから、なぜそう感じるかという理由も含めて話し合ってもらい、「皆の考え方が違う」ということをまず可視化します。その後に「こういうケースも『いじめ』と考えて皆で対処した方が重大化を防止できるよね」というように、クラス全体でいじめに関する共通認識を作ります。
2年目は、合唱コンクールの事例を扱いながら、「いじめの四層構造」の話をします。
いじめの四層構造とは、社会学者の森田洋司さんが提唱しているもので、いじめは被害者と加害者だけの問題ではなく、加害者の周りには加害者の行いをおもしろがったりはやしたてたりする観衆がいて、さらにその周りには静観している傍観者がいる。この四層が互いに影響を与え合っている構造のことです。
事例は、合唱コンクールに優勝するためにクラス全員で朝練を行うことを決めたのに、毎回遅刻してくる子がいて、その子がいじめられてしまうという内容です。ここにいじめの四層構造を重ねて「自分がどんな立場でどういう振る舞いをすると、どんな風にそのいじめに影響を与えるか」といったことを俯瞰的に考えていきます。
例えば傍観者の中にも、いろいろな役割があって、被害者と加害者の間に入る立場である「仲裁者」になるには、すごくハードルが高い。仲裁者になれたらかっこいいけれど、これ以外にも話題や場の空気を変える「スイッチャー」や、いじめの解決に貢献できなくても話を聞いたり声を掛けたりする「シェルター」などの役割があることを知ってもらいます。
その中で私たちが特に強調しているのが、いじめの場面にカットインできる大人なり、影響力のある友達を連れてくる「通報者」の役割です。このときに重要なのが、通報者は“こっそり”伝えるのが基本だということ。
子どもの間では「チクりは卑怯だ」という言説がありますが、これはまさに「卑怯な人の理屈」です。大人の社会でも公益通報者保護法という法律があり、企業の不正を通報した人は保護されなければならないと考えられています。ですから、通報者として“こっそりちゃんと”伝えましょうと子どもたちには伝えています。
とにかく自分にできる範囲で、できることをやっていくことがいじめの解決に向けては非常に大事なことであり、些細なことでもいいから積極的に動こうという姿勢になってもらうのが2年目の目標です。
——法律の考え方をもとに展開されていくのが興味深いです。3年目以降はどのような内容を学ぶのでしょうか?
3年目は、「中立」を考えることがテーマです。
ここでは、自分が傍観者としていじめられている子の存在に気づき、それを同じ立場の友達に相談したところ「私は中立でいたいから何もしないでいるよ」と言われた。その姿勢は本当に中立か、ということを考えてもらいます。
ここまでの授業で、何もしなければいじめが止まらない可能性が高いことを子どもたちは理解しているので、「中立だから何もしない」という発言に違和感を覚える子は多いです。しかし「中立」と言われた途端に「お節介かな」「出しゃばりかな」などと躊躇してしまうんですね。
大人の世界でも「中立」は、さまざまな解釈ができるマジックワードと言えるでしょう。その違和感を自分の良心に従ってどう乗り越え、どう行動するかを考えてもらいます。
「中立かもしれないけれど正義ではない」「結局いじめに加担しているのと同じだから中立ではない」「そもそもいじめの問題に中立なんてない」などいろいろな意見が出ますが、自分の良心に従って立論していれば「中立か否か」の結論自体はどちらでもかまいません。
「中立とは何か?」という問いに向き合うと、いじめの問題や理不尽な事実に直面したときに「もっともらしい言説」に惑わされず「自分の良心に従って立論すること」の大切さを意識することができるのです。
4年目はプラスアルファの内容として、模擬調停を通して中立についてさらに深く考えてもらいます。各クラスから調停委員役、被害者代理人、加害者代理人を出してもらって、私たちが用意した事案について調停をするというワークです。
ここでは加害者が100%悪い事例を用いますが、それぞれの視点からしか状況を見せないため、調停委員役が時系列に沿ってきちんと整理していかないと加害者が100%悪いことに気づけません。
また、加害者代理人役にはとにかく屁理屈をたくさん言うようお願いしておきます。あくまで加害者が正しいかのように庇ってね、と。そうすると、本当は100対0で加害者が悪い事案であるにもかかわらず、調停委員役がだんだん50対50に寄せていってしまうことがあります。
本当は被害者側に悪いところなどないのですが、「お互いに悪いところがありますよね」と被害者側も謝るよう説得し始めてしまう。でもこれは中立ではありません。100対0の事案は100対0と判断するのが中立であって、50対50にするのは加害者側の肩を持っているだけです。
このワークを通して、子どもたちは「どちらも謝っておしまい」という解決が必ずしも良いとは限らないこと、傷つけられた人を本当に守るには間に入る人に「ダメなものはダメ」と言い切る“強さ”が求められることなどに少しずつ気づいていきます。
法・人権・教育を三位一体で考える
——ワークを通してどのように法的思考を身につけることができるのか、もう少し詳しく教えてもらえますか?
2年目に行う合唱コンクールの事例を見てみましょう。
この事例は「遅刻に不満を持つ子vs遅刻する子」という単純な問題ではなく、集団で決めたルールを逸脱した個人がいる場合、集団としてどう扱うかという事例です。ここで考えなければならないことは、「そもそも法やルールが何のために存在するのか」ということです。
大前提として、法やルールは個人を尊重するためにあります。性別や宗教、育ってきた環境や背景などがそれぞれ違う人々が共存する社会において、少しでも衝突を減らし、一人ひとりが尊重されるようにするために法やルールがあるのです。
しかし、なぜか日本の学校では、ルールは大人数を統制するためにあるという勘違いがあり、それは民主社会の考え方ではありません。
この事例なら、皆で朝練をやろうと決めたけれどもそれについていけない少数者や、置き去りにされている人たちが出てきた場合、少数者だけに責任を押し付けたりせずに仕組みの方を変えていこうという発想が大切です。
子どもたちからは、初めの10分を任意参加にするなど、仕組みを変えるためのさまざまなアイデアが出てきます。つまり「法やルールは変えられることに気づくこと」が、1つ目の法的思考になります。
もう1つは、内心の自由(憲法第19条等)の問題です。足並みをそろえてくれない子に苛立ったり、腹を立てたりすること自体には、何の問題もありません。私たちは心の中で何を思っても絶対的に自由です。
私たちの心の中は、私たちの人格を支える根幹ですから、「内心の自由」は非常に高い価値であると考えられています。たとえネガティブな感情であっても「私」を構成する重要な要素であるということです。
ですから、問題は苛立ちそのものではありません。「問題解決手段として相手の尊厳を傷つけない手段を選択できたか否か」です。「手段の選択」のみが問われています。これが2つ目の法的思考です。
3つ目が、「適正手続」(憲法第31条参照)です。「手続」と聞くと“形だけ”のようなイメージがあるかもしれませんが、手続は本来、権力や権限の発動に対するブレーキの役割を担っています。
「この要件を満たしたら、この権限を発動してよい」と定めているのが手続です。刑罰などの大きな権力が発動されるには、国民の議論により定められた法律(この場合は「刑事訴訟法」)の手続を踏まなければならないのです。つまり、手続を定めることそのものが人権を保障することなのです。
合唱コンクールの事例では、もし遅刻者にペナルティを課したいのであれば、一体何をしたらどのようなペナルティが課されるかをあらかじめ皆できちんと話し合っておく必要があります。例えば無断遅刻が3回続いたら昼練を10分間追加するといったことなどが考えられるでしょう。手続を定めることで人の権利を守っていくという手続保障の概念も、この事例から学ぶことができます。
——法的と聞くと遠くて難しい次元の話だと思ってしまいがちですが、もっと身近にあるものなんですね。法的視点について知るだけでも、何かいざこざがあったときの解決のアプローチが変わってくると感じました。
まさにその通りで、私がしているのは人権の話です。
人権は、特別なときに登場する概念ではなく、常に「ある」ものなのです。例えば、建築基準法や道路交通法などで私たちの身体の安全が守られているように、日常生活においてもさまざまな場面で私たちの権利は法律によって守られ、尊重されています。法は非常に身近なものなのです。
例えば、急に「明日からあなたはこの服とこの服しか着てはいけません」と言われたら、自己決定権が制約されていると大人はすぐに気づきますよね。当たり前の前提になっているから気がつかないだけで、私たちには自己決定権があります。
また、制約の例をイメージすれば、いかにそれが高い価値であるか、その尊さにも気づくことができるでしょう。しかし、それが子どものことになるとどうでしょう。「この服を着てはダメ」などと、大人は割と簡単に子どもの自己決定権を制約してしまいがちです。
その制約に、どこまでの価値があるのかということを、大人は改めて真摯に考える必要があります。そうでないと、自分の権利の尊さに鈍感な子どもたちが育っていくことになります。やがてそれは権利の制約に鈍感な社会を作ることにもつながっていきます。子どもの権利と大人の権利は、地続きでずっとつながっているのです。
——子どもたちの自己決定権も含め、広く人権について社会全体でもっと考えていきたいです。そのために学校にできることはありますか?
私がずっと感じていることは、本来、「法」と「人権」と「教育」は、それぞれ重なり合っているはずなのに、今の学校教育や社会を見ていると、必ずしもそうはなっていない、そういう認識があまりないということです。そもそも、法律は人権を守るためにあるので、人権と法律は当然に重なり合っています。
また、日本は民主社会であり、教育の目的にも「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」(教育基本法第1条)がありますから、自分たちの人権やその尊さ、その守り方について学ぶ必要があります。
ですから、教育もここに重なってくるはずです。しかし残念ながら、それぞれがバラバラに存在しているような空気があります。
本当はこの3つは全部重なっているのだということを、いじめ予防の授業を通して伝えていくことが私の役目だと思っています。そうすることが、「個人が尊重される社会の実現」につながると考えるからです。私たちが授業で伝えた法的な考え方を、先生方によって学校の中に根づかせていただけたらとてもうれしいです。
〈取材・文:管谷 雅紀/写真:ご本人提供〉
真下さんのお話は、先生の学校YouTube番組「社会を彫刻する人たち〜半径5メートルから始める社会彫刻〜」でご覧いただけます。合わせてご覧ください。
この記事に関連するイベント動画を観る
先生の学校に参加すると、
過去イベントの動画が見放題!