教育現場のデジタル活用に詳しい、豊福さん教えてください! 子どもとデジタル、先生とデジタルのより良い関係って、どうしたらつくれますか?
私たちは、デジタルの活用について興味のある小学校教員3人というメンバーで取材のチームを組みました。
GIGAスクール構想が3年目を迎え、全国の小中学校ではデジタルを活用した教育実践が積み重ねられてきている一方で、ChatGPTをはじめとする生成系AIなどの拡充に伴い、デジタルと正しくつきあうための考え方について子どもたちに伝える必要性が一層高まっています。
そこで私たちは、子どもとデジタルのより良い関わり方について研究されている豊福晋平さんに話を聞きました。
20年先を見据えたデジタル活用を
—— ChatGPTの普及や新しいツールが次から次に教育現場へ導入されることに対して、懸念を抱いている先生方も多くいらっしゃいます。豊福さんはこの現状について、どのように感じていらっしゃいますか?
私は現在、国際大学グローバル・コミュニケーション・センターというところで、GIGAスクール構想やデジタルツールの活用に関する研究をしています。
研究の一環として、学校現場での授業視察や出張授業をさせていただいているのですが、先生たちがデジタル活用に関して気負いすぎてしまっていると感じることがあります。完璧に使おうと気負いすぎるあまり、使用を躊躇してしまう。「教員がデジタルを用いた授業をしなければ」「子どもたちに使い方の手本を示さなければ」という考えを緩めていくことが、まずは必要だと感じています。
——なるほど。確かにICTの活用の仕方は「教員が子どもたちに教えるもの」と捉えがちかもしれません。
学校では、固定化されたカリキュラムや、決められた内容を教えるのに精一杯になって時間的な余裕がなく、子どもに委ねる学習は難しいという意見も多く耳にします。本当にそうでしょうか?
私が研究で関わっている先生と話をしていると、いつの間にか授業そのものの進め方や技法に目が向き、それが本当に子どもの学びを実現しているのか、という観点が抜け落ちているときがあると感じます。
イギリスの教育学者であるマイケル・バーバー氏が唱える「40年ギャップ」という説によると、子どもはこの先の将来を生きるのに、教育において大人は「現在・過去」に目を向けていると言われています。本来教育は、子どもが大人になった20年先に目線を合わせる必要があるはずなのですが、実際は大人が子どもだった20年前の経験をもとに、現代の子どもたちに教えてしまう傾向がある。結果的に、20年前を見ている大人と、20年後を見据えた子どもとの間に40年ものギャップが生まれているとバーバー氏は唱えているわけです。
つまり、大人が経験してきた教育を子どもに届けることは、40年分のギャップを子どもに背負わせることになるわけです。これでは、将来に役立つ学びを伝えているとは言いづらいですよね。
——大人と子どもが教育を見る視点に、40年ものギャップがあるとは…すごくハッとさせられました。そのようなギャップは、実際の現場にはどのように影響しているのでしょうか?
デジタルが学校現場に導入されて一番ギャップが生まれているのは、学校で子どもがICTを使う頻度です。
子どもがデジタルを文房具のように捉えて、子どもが使うべき・使いたいと判断したときはいつでも使うことを許可している教室と、「滅多に使わせるものじゃない」と先生が使用タイミングをコントロールしている教室では、総利用時間が大きく異なります。これに応じて、デジタルを活用した子どもたちの経験が、段違いで違っていきます。
でも一方で、子どもたちがテクノロジーを四六時中使っていると「先生の指示そっちのけで、没頭したり遊んだりしてしまうのではないか?」と考える傾向が大人にはあるのではないでしょうか。授業として大事なことは、子どもたちが先生の指示通りピシッと学ばせるように見せることなのか?むしろ、子ども自身があることへの集中や没頭や戯れを通じて、学びの達成感を得ること、学びへの動機づけを高く保つことを重視することが大切だと、私は日々伝えています。
今、大人の考え方次第で、学校間や自治体間でデジタルをどれだけ使っているかという格差がすごく大きくなっています。このことによって、数年もしないうちに子どもの側にも大きな影響が出るのではないかと私は危惧しています。実際にデジタルを活用する経験を積めるかどうかで、その後の未来が大きく変わっていくと思います。
——先生方の中には、インターネット上でのトラブルを恐れて使用を躊躇している方も多いように感じます。そのような悩みは、どうしたら解消できると思いますか?
先生方の中には、子どもがデジタルを使う機会を失くせばそもそもトラブルを起こすこともないので、できるだけ使わせたくないと考えている方もいるように思います。でも、デジタル端末を学習で使わせないということは、子どもたちがデジタルを通して学ぶ機会を積極的に奪っていることになります。私はこのことを、「デジタル剥奪」と名付けています。
そもそも文部科学省は子どもが学びの道具として使えるように、デジタル端末の整備をしました。 保管庫からいつでも取り出せて、学びのときには使えるという条件を、全国に整えたんですよね。
だから、使いたいときに使えない先生方や子どもたちがいるとき、「なぜ自在に扱える環境にできないのですか?」と私はハッキリと疑問を投げかけるようにしています。なぜかと言うと、デジタルを使っていない状況を見て見ぬふりをすることは、私自身もデジタル剥奪に加担していることになるからです。
子どもたちの学ぶ権利を奪っているのではないかという論点は、デジタルの使用是非が問われる中で新しい視点だと考えています。これから先の未来、デジタルが当たり前の世界を子どもたちは生きていきます。だからこそ、デジタルを使わせるか、使わせないかという、過去に視点をおいた議論ではなく、デジタルありきの社会をどう生きるかという議論を一緒にしたいと考えています。
デジタル活用で大事な「つくる」と「届ける
ーー私たちは今後デジタルの存在をどう捉え、どう活用することが望ましいのでしょうか?
コンピュータやネットワークなどのデジタルという存在は、刃物や火と同じだと私は普段伝えています。
デジタルの使用が怖いという先生方の意見にもすごく共感していて、それは刃物や火と同様、しっかりコントロールして使わないと怪我をしてしまうし、他の人を傷つけることにもつながるんですよね。だからこそ、道具との出会い方や役立て方は、経験を通して自分で考えていかないといけません。人から受け身で教わるものではなく、自分で考えて行動することが、デジタルのより良い使い方を見出すための出発点です。
子どもたちは、自分で何かを作り出し、作ったものを他の人に見せ、評価してほしいという欲求を持っています。だからデジタルを使う際に「つくる」と「届ける」という2つの活動を組み込むことができれば、デジタルは子どもたちの強力な武器になってくれます。
ーー「つくる」と「届ける」ですか。もう少し詳しく教えてください。
具体的には、デジタルをもっとアウトプットの道具として使うことをおすすめしています。
デジタルが導入されたことにより、授業の動画配信や、AI学習ツールを使った効率的なインプットが注目を浴びました。しかしデジタルの活用はそれだけに止めてはいけません。それは、デジタルはまた強力なメディアになるからです。
ここでいうメディアとは、情報を得る媒体であるのと同時に、情報を発信する媒体を指します。このようなデジタルの両側面を活用したとき、本来の価値を発揮する。けれども現在の学校は、デジタルを本当のメディアとして使えていないと思うのです。
メディアとは、もともとそこにいなかった人にメッセージを届けるためのもの。例えば、テレビや新聞、手紙などは、その場にいなかった人に情報を届けるために使われますよね。
だから学校でのメディアの活用例としては、例えば学外の人に対して学校での取り組みを発信することが挙げられます。遠足に出かけたときの様子について、子どもたちが保護者に向けて知らせる手紙やブログ記事を書いたり、写真や動画などで発信することは、アウトプットメディアの正しい活用例と言えます。
ーー「つくる」は、作文などを中心に学校で取り組んでいるように感じますが、「届ける」まではなかなか至らないこともあります。
そうかもしれませんね。情報は、受け取った側が自分なりの解釈で意味や価値を見出していくものです。つまり、教室のなかではありふれた事でも、保護者や地域の人々が受け取れば、違う評価を受けるものですし、メディアというのは自分の想定外のところに影響が及ぶ可能性もあるのです。
そして、情報が一旦受け取られたら、その解釈については発信者は一切コントロールできません。大人になったら、デジタルは避けては通れないほど誰しもが使うものになるのだから、私は、発信の意図にそぐわない解釈をされてしまったときの対処方法や、責任の引き受け方に関して学校で学ぶべきだと思います。
でも日本の学校でこれらを実際に教わり実践する機会はほぼありません。私はこれが大問題だと思っているんです。
ーー確かに失敗を恐れるあまり、デジタルを使わせないようなルールが頭をよぎったこともあります。では、学校はどのような役割を果たしたらいいのでしょうか?
学校は、人間関係の枠組みを広げていくトレーニングができる場だと私は思っています。広く捉えると、これは社会参加の第一歩です。
学校で友達や先生と関わる中で、ときには失敗もしながら人間関係を培う術を学んでいきますよね。デジタルも同じで、身近な人々から徐々に社会に対してアウトプットすることに挑戦していけば、デジタルを活用する意義とリスクを、子どもたちは学んでいけるはずなんです。
学んだことを生かして教室や学校の外へ発信するといった学習環境のデザインは、学校でしか行うことができないので、やはり学校という存在はすごく大切だと思っています。
ーー学校の外に向けてアウトプットすることが、「届ける」につながるのですね。具体的な取り組みや事例を教えていただけますか?
研究を通してさまざまな学校の取り組みを教えていただく中で、子どもに広報委員として学校ブログを書いてもらうという小学校の事例と出会いました。
単に記事を書かせて終わりではなく、学校の事を公的に知らせる役割を負うこと、「ブログを公開するということは、自分たちが知らない人にも情報が届くということなんだよ」と子どもたちに伝え、原稿の見直しをさせていたんです。
このように子どもと大人が一緒に文章を推敲し、アウトプットする作品を作り出していく。文章を外に出していくと、保護者だけでなく、地域の方や別の小学校に通う子どもだったり、いろいろな人から反応が返ってきます。社会に発信するというトレーニングが、子どもたちのアウトプットの機会を生むだけでなく、学校のホームページが社会的に価値あるものとして周囲に認識されている事例です。
子どもがいきなりプライベートで知らない人とやり取りをするのはリスクがありますが、学校の安全な環境で身近な人々から社会へ徐々にコミュニケーションの枠を拡げることには積極的な学習の意義があります。
デジタルシティズンシップの本質は、「シティズンシップ」
ーーこれまで学校では、実践の中でデジタルの使い方を学ぶというよりも、「情報モラル」という形で取り出してルールやマナーを教えてきました。しかし豊福さんは、日常的にデジタルを活用してアウトプットすることを通して、デジタルとのより良い関係を築くことが大事だと伝えていらっしゃるのですね。
そうですね。実は私は現在学校現場で教えられている「情報モラル」は、今の子どもたちを取り巻く社会の現場にフィットしていないと思っています。
「情報モラル」で教えられていることを簡単にまとめると、抑制、他律、心情主義の3つです。まず、デジタルに対する基本姿勢は、できるだけ使わないようにするという「抑制」。そして、活用するのであれば先生の言うことを聞いて使いなさいとだけ教えるのは「他律」。あとは、問題を起こさぬように、デジタルは思いやりをもって正しく使いましょうという「心情主義」。
でも子どもたちは学校で抑制したとしても、家庭で大人の関与なくどんどんインターネットなどを使い、さまざまなトラブルに直面している状況では、これらの予防的安全策では不十分です。従来の「情報モラル」の想定を大幅に超えていることは明らかです。
これからは「使わない」ことを前提とするのではなく、四六時中「活用」しているのが前提になっていきます。つまり使い方を誰かにコントロールされる「他律」ではなくて、子どもが自ら使い方を考える「自律」が大事なのです。
そうすることで行動規範をもとに課題に直面した時も自分で解決への手立てを落ち着いて考え、実行することができるようになります。それが、デジタル・シティズンシップです。
ーーデジタル・シティズンシップ、ですか。
デジタル・シティズンシップとは、テクノロジーを介して社会に積極的に関与して参加する能力のことです。
子どもたちがテクノロジーと出会い、自分の将来に役立つ道具にするという視点を持つことからデジタル・シティズンシップの学びは始まっていきます。
この言葉についてときどき誤解されているように感じるときがあります。それは、デジタル・シティズンシップが、デジタルをどれだけ上手に活用できるかという「デジタル」の部分に主眼を置いて捉えられていることです 。
実はそうではなくて、デジタル・シティズンシップの本質はむしろ「シティズンシップ」、つまり人権や市民権の部分にあると考えていただきたいのです。デジタルを通して、自分は社会に何を貢献できるのか、子どもたちが見つけていくことが核なのです。
ーーシティズンシップの部分が、デジタルを使ったアウトプットなどの社会への貢献とつながっているというわけですね。ぜひ子どもたちと一緒に、チャレンジしてみたいと思います。
そうですね。子どもたちはユニークな発想を持っていますし、うまく委ねていけばいくほどワクワクする授業を作ることができます。
また、今はデジタルの力で先生同士が横でつながれるようにもなっています。おもしろいことに挑戦したいと思ったら、自分だけで頑張らず、デジタルの力を借りて、先生同士が手をつないでみてください。そうすることで生き生きと子どもたちがデジタルを活用し、社会とつながる学びを作っていってもらえたらうれしいです。
<取材・文:チームゆるデジ/写真:ご本人提供>