人が出会うのは、お互いにその人に会うことが必要だったから。教師は「そのままの自分」で、目の前の生徒に集中する
子どもたちから「イモニイ」の愛称で親しまれる井本陽久先生は、神奈川県鎌倉市にある私立の中高一貫校、栄光学園中学高等学校で数学教師として27年間勤められた後、2019年度より契約形態を非常勤講師に変え、都内を中心に展開する「いもいも教室」を主宰。
「カリスマ」と称され、多くのメディアから注目される井本先生だが、実際にお会いする井本先生は、子どものようにキラキラと瞳を輝かせ、気さくであたたかい。
子どもたち一人ひとりと真摯に向き合い、縁を大切にされてこられた井本先生に、教師人生で大切にされてきたことについて伺った。
神奈川県鎌倉市にある私立の中高一貫校「栄光学園」にて数学教師として27年間勤めたのち、2019年度より非常勤講師となり花まる学習会主催「いもいも教室」に注力している。
教育に、答えはない
――井本先生の授業の特徴は「教えない、考えさせる」だと思いますが、その授業スタイルはいつ頃から実践されているのでしょうか
教員7年目の28歳のときですね。「できる・できない」「理解している・していない」ではなく、生徒たちが自分で考えているかどうか、そこだけに焦点を当てて授業をすることに決め、今日まで続けてきました。
そのきっかけとなったのは、教員4年目〜6年目に高校1年生〜3年生を持ち上がりで担当していたときのことです。
生徒たちが大学入試の準備を進める中で、自宅学習で分からなかった問題を僕に教えてほしいと言ってきたんです。そこで、どこが分からないのか、自信がないのかと尋ねると、どこがというより、このやり方で合っているかどうかが分からないと。似たような問題でこういうやり方があったから、これで良いのかを聞いてきました。
そのときに驚くと同時に、これではいけないと思い授業スタイルを変えました。
――「教えない、考えさせる」スタイルに変えて、いかがでしたか
とにかく生徒たちが自分で考えているかどうかに焦点を当てていたら、自分のちょっとした発言で一気に子どもたちが考えなくなることや、僕のやり方を真似しようとすることが分かったので、自然と答えを与えなくなりました。
それは子どもに対してだけでなく、大人に対してもそうで(笑)。
こういう取材とかまさにそうなんですが、教育ってほとんど相関関係がはっきりしないので、それっぽく言うと信頼されてしまうんですよね。このやり方が正しいんだ!と。でもそれが嫌で。
そもそも教育にノウハウなんてないんです。
教育は目の前の生徒に向き合って、観察して、これと思ったものを試してみる。失敗してよくて、それの繰り返しだと思います。
答えなんて、ないです。
――まさに私も、井本先生に「答え」を求めてしまっていたと思います
お母さんたちからも「どうしたらいんですか?」と答えを求められることがあります。その気持ちはものすごく分かります。
一方、お母さんが一番その子の近くにいるのだから、出会った縁を信じて、思ったようにやってみる。失敗しても、それを通して気付くこともあるし、それが出会いの縁だと思うんです。
もっと縁を信じて試行錯誤すれば、子どももお母さんも変なものから解放されて自由になれる。「できる・できない」は幻想、優劣はないのが自然。
どこかで人は自分に自信がないから、優劣という見方を取り入れて、自分は優だと思いたくなる。
自分は何者かにならないと価値がないと思ってしまいがちですが、私が主宰している「いもいも」ではその逆を大切にし、優劣の概念を壊したいと思っています。
先生をやる上での一番の武器は「キャラクター」
――足並みををそろえましょう、といった横並びを気にされる先生もいらっしゃると思うのですが、そのあたりは調整などされたことはありますか
一切ないです。栄光学園は、先生一人ひとりが信頼され全てを任されているので、新人の1時間目から授業を見られることもなく、指導も入りません。本当に自由なんです。
授業においても、各教科で2年生はこの範囲、3年生はこの範囲、とゆるく決まるじゃないですか、それだけです。
例えば、「最低限ここまでは足並みそろえましょう」とかあるじゃないですか。でも、そもそも最低限が何かってことを考える。
先生方が持っているものってそれぞれ違っていて、それぞれに価値があるので、すべてその人が試行錯誤して決めれば良いと思っています。本当に必要なものなんて、それぞれが目の前の子どもたちに集中していれば、抜け落ちることはない。
先にこれが最低限ですとか、これが必要ですとか決めてしまうことで、それに囚われてしまうことってあると思うんです。
先生の強みって、生徒を直に見られること。
自分の中の思い込みや価値観を脇に置いて、目の前の生徒に集中していたら、目の前の子どもたちを喜ばせてあげることができると思います。
――横並びなんて気にせず、もっと先生一人ひとりの個性が発揮できるようになるといいですよね
先生をやる上での一番の武器は「キャラクター」なので、それを捨てるのはもったいないです。先生一人ひとりのこれまでの人生や縁、特性など、まさに全てが価値なのですから。
先生方が皆同じである必要も、一貫している必要もない。一貫していると、先生も子どもたちも苦しくなってしまいます。思い込んでしまうことで、自分自身も見えなくなるし。そんなことしなくても子どもは育ちます。
先生は働き方からしたらブラックと思われるかもしれませんが、実際の問題は業務量ではなく、自分が思うようにやれているか否かだと思います。
短時間であっても、言われたやり方でやることを要求されたら人は病んでしまうはずです。
先生はもっとその人が思うようにやってみて、たくさん苦しめばいいんです。
――先生一人ひとりの個性や可能性を「そのまま」生かすためには何が必要でしょうか
4年ほど前に、将来先生になりたいという大学生たちと話す機会があったんですが、本当にそれぞれ先生になりたいという強い思いがあって。
それを聞いていたら、教育改革なんてしないで、この子たちがこのまま先生をやって、苦しんで、試行錯誤して、ずっとやっていけば、ほとんどのことが解決するだろうなと思いました。
でも実際に学校に所属するとなかなか自分の思い通りにはやれないですよね、よっぽどの変態じゃないと(笑)。
だからこそコミュニティというか、学校以外で支え合う場がないとだめだなと、そのときに思いましたね。少しずつそういったコミュニティは広がってきているなとは感じています。
学校の価値は、人がたくさんいて時間がたくさんあり、場所がふんだんにあること
――いつも明るくパワフルな井本先生も、若いときにはそういったコミュニティの必要性を感じられることはありましたか
ありましたよ(笑)。僕自身も「そのままの自分」と「こうあるべきの自分」がぶつかっていたときがありました。
20代は自分にとっては真っ暗闇。側から見たら明るく楽しい先生だったかもしれませんが、自分の中では嵐が吹き荒れていました。
何が苦しいかも分からなくて、自分に罵声を浴びさせていました。そして、不登校のような状態になってしまい、学校を辞めようとしたことは何度もありました。
そんな状態から抜け出せたのは、「安談(あんだん)」のおかげだと思っています。
――「安談」というのは、どういったものでしょうか
今は変わってしまったのですが、当時の栄光学園には「安談」という、カウンセラーに相談できる仕組みがありました。
安心の「安」に、相談の「談」で「安談」です。
生徒対応の相談に対し、答えを言ってくれるのではなく、自分のやり方を試行錯誤することを支えてくれたんですよね。
安談の存在がなければ、今の自分はありません。もし全てをカウンセラーに委ねていたら、自分の行いを正当化していたと思います。「こうした方がいいですよ」といった答えっぽいものを提示されなかったからこそ、生徒を通して自分を見つめることができました。
そういった自身の経験からも、先生のためのコミュニティというか、学校以外で支え合う場が必要だと感じています。
――最後に、新型コロナウイルスの影響もあり、わざわざ学校に通う価値が問われていますが、井本先生はどう考えていらっしゃいますか
学校は目的を持たない方が良いと思っていて。
目的を持ってしまうと、それに必要か不必要かという目でしか見なくなってしまうと思うんですよね。
学校以外の環境に出て痛感したのは、学校の価値は①人がたくさんいて、②時間がたくさんあり、③場所がふんだんにあること。
一人ひとりが安心して自分を出せる状況にさえあれば、3つがそろっているので、どんな風になるかは分からないけど、子どもたち一人ひとりの幸せに向き合えると思います。どんな風になるかが怖いのは、その子の人生の縁を受け入れることができていないからだと思います。
――目の前の「縁」を大切にしていきたいと思えました
人が出会うのは、お互いにその人に会うことが必要だったからだと思うんです。先生にとっても、先生と生徒として会うということは、お互いに必要だったということ。
だから、学校の先生はこうである、というのは邪魔なだけなんですよね。先生がこの子たちと会った縁は、自分の「そのまま」がその子たちに必要だったということだと思います。
だからこそ、自分の「そのまま」とは何かを考える必要があります。
先生の役割は、一般的な教育をつくるのではなく、縁あって出会った目の前の子どもたちを喜ばせてあげることだと思います。一人ひとり違う生徒全員へ、責任を持って授業をする。
子どもがいて、先生がいて、はじめてできあがるものだと思っています。