「今日のメロンよりも明日のメロンをたくさん!」という人を育てる。日本を代表する劇作家が考えるコミュニケーション教育とは?
最近、教育現場で脚光を浴びている「対話」。
対話とは、異なる価値観を持つ人たちがお互いに理解を深め、共に生きていくためのコミュニケーションです。
私たち教員は日々の仕事の中で、子どもたちの対話をガイドする高度なコミュニケーション能力を、常に求められています。さらに、多忙化する教員と教員の間で起きているコミュニケーション不全も大きな課題だと感じています。
こうした課題を抱えながらも、これから子どもたちと学びをつくっていく教員に求められるのは、どのようなコミュニケーション能力なのでしょうか?
本記事では、劇作家で演出家の平田オリザさんから、コミュニケーションと教育についての話を聞きました。
平田さんは日常的な話し言葉を用いる「現代口語演劇」で有名な劇作家・演出家ですが、もう一つの顔として兵庫県豊岡市で公立小・中学校のコミュニケーション教育にも携わっています。スキット(寸劇)『転校生が来た』の授業を通じて、平田さんはどのようなことを感じ、考え、子どもたちとの関わりを持っているのでしょうか。
さまざまな具体例と哲学的な視点を織り交ぜながらも、コミュニケーションと教育に改めて光を当てる記事になりました。読者の皆さんも、平田オリザさんと私たちと一緒に教室・職員室での「コミュニケーション」について考えてみませんか?
芸術文化観光専門職大学 学長
こまばアゴラ劇場・江原河畔劇場芸術総監督。豊岡演劇祭フェスティバル・ディレクター。2011年フランス文化通信省より芸術文化勲章シュヴァリエ受勲。著書は、『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』『22世紀を見る君たちへ』『ともに生きるための演劇』『但馬日記』など多数。
子どもが動き出すコミュニケーションのさじ加減
ーーまずは、平田さんが考える「コミュニケーション」とは具体的にどのようなものか、教えていただけますか?
大学をはじめ、教育がどんどんアクティブラーニング型の学びに向かう中で、コミュニケーション教育を取り入れる学校も増えてきました。そんな中で私は、それが何のためのコミュニケーション能力なのかを考えると良いと思っています。
私がよく学生たちに言うのが、コミュニケーション能力を縦軸と横軸の2軸できちんと考えましょう、ということです。
横軸は「何のためのコミュニケーション能力なのか」という、コミュニケーションの種類です。例えば、国際的に活躍するためのグローバルコミュニケーションスキルなのか、あるいは日本国内に暮らす外国の方と交流するための多文化共生型のコミュニケーションスキルなのか。
はたまた、価値観が多様化する現代社会では、世代間のギャップを埋めるようなコミュニケーションスキルというものも社会に出てからは必要かもしれません。このように、何のためのコミュニケーション能力なのかということを、まず教員側がきちんと切り分けないといけないと思います。
そして縦軸は、生徒・学生一人ひとりのライフプランという切り口です。
受験や就活のためにコミュニケーション能力があるわけではなく、大人になった自分をイメージしながら、今どんな学びをしようかと考えることがとても大事だと思うのです。なりたい自分の姿から逆算して、どんなコミュニケーション能力をつけたらいいのかを考えるべきだと思っています。
ただ、大体どんな子どもでも、友達とは普通に話せていることを考えると、9割方、一定程度のコミュニケーション能力は持っているんですよね。ですので、コミュニケーション教育の役割というのは、新たに能力を子どもたちにつけ加えることではなくて、既に持っている能力を引き出してあげることなのだと定義をしています。
先生方は、子どもたちの「能力を引き出す」ためにいろいろと尽力されるのは良いのですが、「能力をつけ加えようとする」から余計なことになって、悩んでしまう。持っている能力をどんな場面でも発揮できるようにしてあげるのが高等教育におけるコミュニケーション教育の肝かと思います。
私が最近よく先生方に話すのが、「子どもたちはいろいろなアイデアを持っているんだけれど、それを実現する能力や物語にする能力は、発達段階によってはなかなか難しい。だから、そこの後押しをしてあげてください」ということです。
ーーなるほど。平田さんは教育現場で演劇を用いた授業を行っていらっしゃいますが、具体的にどのような授業をされているのですか?
よく行う授業に『転校生が来た』というスキットがあります。
スキットとは、ちょっとした芝居、寸劇のことですね。ある日先生が転校生を教室に連れてきて、転校生にいろいろな質問をした後で、先生だけ職員室に戻ってしまう。今度は教室に残った生徒たちと転校生だけで話す、という設定で、続きは生徒たちが台本を作っていきます。
ある学校でこの授業をやってみたときのことです。
初めに転校生がどこから来たかを決めるのですが、ある男の子が「刑務所から来た」という設定を出したとき、同じグループの女の子が、「そんなのあり得ない」とその意見を否定して、すごく険悪な雰囲気になったということがありました。そこにちょうど僕が通りかかって「別にここが学校という設定じゃなくてもいいんだよ」と声を掛けたんですね。そうしたら、皆「え!」となって、そこから話が盛り上がり、進んでいきました。
子どもたちは、どうにかうまくワークを進めたいんです。でもどうやっていいのかが分からないときがあって、対立して険悪な雰囲気になってしまう。そういうタイミングで声を掛けてあげると、効果的です。
先ほど例にあげたグループは、最終的に「刑務所に新しい受刑者がやってきて、最後は囚人皆で脱走する」という壮大な物語を作り上げていました。
従来型の授業をずっとやられてきた先生には、どこのタイミングで背中を押してあげて、どうアドバイスするかということが難しいのだろうと思うんですね。一番やってはいけないケースは「ヒントを出そうか?」と言って、先生がアイデアを出してしまうことです。そうすると、結果的に皆同じような物ができ上がってしまったりする。これは、先生のコントロールが強すぎる例です。
少し行き詰まっているところで、ちょっと声掛けをして道を開いてあげさえすれば、子どもたちは動き出すことができます。でも、いつ・どこで・どのような声掛けをするのか見極めることが先生には難しいのだろうなと、こうした授業を30年ほどやっていて感じています。
ーーもともとのスキットの設定がある中で「学校じゃなくてもいいんだよ」という、ある種「計画から外れる声掛け」をすることは、私たち教員にとっては難しいことかもしれないと思いました。
スキットの授業における一番のポイントは、劇を作る授業だから「変えていい」ということです。ですので、私が授業で使うスキットの最初によく、「あの番組見た?」「しょうがないじゃんか、親父がプロ野球見てたんだから」という台詞で、朝ワイワイ話しているシーンを入れます。
「親父」じゃなくても、「父上」でも「パピー」でもいい。これは劇を作る授業だから変えていい、嘘をついても構わないという話を子どもたちにするんです。
そしてもう一つのポイントとして、「スベると恥ずかしいから気をつけてね」という話も最初にします。というのも、やはり前提として、ある種の場面設定はどうしても必要です。ただ、場面を設定しすぎるのも、そこから変えることがなかなか難しくなってしまうので、ここはさじ加減なんですけど。
「それだとスベるよ」とか「え、やってみようよ」と議論するときに、少なくとも「スベるかスベらないか」という基準は子どもたちの中にできてきます。そうなると、子どもたちにとってはすごく楽しく議論ができるようになります。子どもたちは皆、お笑いが大好きなので理解も早い。
ーーなるほど。場面設定や基準があると、自然と話し合いが生まれてきますね。
そうですね。例えば、全ての小・中学校に演劇教育を導入して7年が経つ豊岡市では、演劇の授業の成果として、約8割の中学生が「話し合いが好き」とアンケートで答えたそうです。
「こんなことを言ったら笑われるんじゃないか」と物怖じするような気持ちがなくなり、発言率も上がったようで、話し合うことが楽しいという感覚ができてきたのかなと思います。
ただ、この7年間の取り組みで一番変わったのは先生方だという声もあります。
特に若い先生方が子どもたちに対して、「ここまで自由にやらせて大丈夫なんだ」とか「子どもたちってこんな能力を持っているんだ」「ここでちょっと背中を押してあげればいいんだ」という感覚をつかめてきた。つまり、演劇的な手法を実践していく中で、大きい型を示すことや背中を押してあげるということのさじ加減の感覚をつかんできたと。
これを言うと精神論みたいになってしまいますが、結局先生を一番変えるのは、子どもの笑顔だと思うんです。なので、いろいろな声掛けのタイミングを習って、ちょっとやってみて、子どもたちがハッとなって目を輝かせる瞬間を経験することが、若い先生方を最も成長させる方法なのだと思います。
対話とは、異なる価値観を持つ人との納得解を探す話し合い
ーー平田さんが子どもたちに声を掛けるときに、タイミングや内容など何か気をつけていることはありますか?
まず、自分からは声を掛けません。よく見て、何に行き詰まっているのかを把握して、行き詰まっているところがあれば声を掛けるようにしています。
それから、子どもたちが対立しているような場合は、意見が2つだと対立するので、他の子にも聞いてみて、違うアイデアをあと3つぐらい出してあげます。そうすると、対立していた子同士もだんだんよく分からなくなってきて、「なんでもありか」と気づいて対立が収まります。
教員がどちらかをジャッジしてしまうとダメなんです。
担任の先生は子どもたちの特性をよく分かっているわけですから、焦らずに、時間をかけて見てあげて、子どもたちの間で何が問題になっているのか、何が衝突しているのかをちゃんと把握することが大事かなと思います。
子どもたちの中には、先に述べたように「そんなのできるわけないじゃん」といった発言をして、相手を全否定してしまう子もいるんですよね。そういうときは、「これならできるんじゃない?」といった声掛けをしながら、そうした発言を止める必要があります。
これは演劇の授業の最後に伝えていることなんですが、「今日の授業は楽しくできたけれど、難しいところもあったよね。劇の授業で一番難しいのは、相手を論理的に説得できるとは限らないということなんだ」と言って、イチゴとメロンの例え話をします。
ーーイチゴとメロン、ですか?
例えばイチゴが好きな兄Aくんと、メロンが好きな弟Bくんがいたとして、AくんがBくんに「なんでメロンが好きなんだ?イチゴの方が栄養価が高いんだから、イチゴを好きになれ!」と迫ったところで、あまり意味はありませんよね。
でも、親御さんに「週末のおやつは何にする?」と聞かれて、兄弟でイチゴかメロンかでけんかをしていたら、どちらも出なくなってしまいます。
週末のおやつをイチゴにするかメロンにするかに「正しさ」なんかないし、決める基準もありません。でも、話し合って結論を出さないと、その兄弟はどちらにもありつけなくなってしまいます。けんかしていたら何も食べられない。
だから話し合って、「土曜日はイチゴで、日曜日はメロンにして」とか「今回はイチゴでいいから、次はメロン多めにして」とか「兄弟仲良くするからイチゴとメロン両方出して」とか、何かを伝えないと、この兄弟は何も得られなくなってしまう。
話し合うとは、そういうことです。正しい答えを見つけることなのではなくて、皆ができる限り利益を得られるような回答を見つけることなんです。
その際には、今日だけのことじゃなくて、明日のことも考えて決める。決まらなかったら、じゃんけんで決めるのも立派な解決策です。とことん話し合うことがいつも正しいわけじゃなくて、それよりも時間内にちゃんと結論を出して伝えることの方が大事なんだよという話を、最後のまとめではしています。
子どもたちは正しさを求めるので、正しい答えなんてないということは、ちゃんと伝えないといけません。
ーーお互いの意見の違いを理解し、すり合わせていくという意味では、対話そのものとも言えますね。ちなみに平田さんは、学校の先生方の間で「対話の場」を作ることについてはどのようにお考えですか?
学校の中で「対話の場」を作ることはとても難しいことだと思います。対話というのは、異なる価値観を持った人と出会って話をしたときに、自分の意見が変わることを恐れないというものですよね。先ほどの例で言うと、「本当はメロンが食べたかったけど、今日はイチゴにして、明日はメロンを多めにしてもらう」と結論を出せるのが対話なんです。むしろ変わることをいとわない、あるいは変わることを潔しとする、できれば変わることに喜びさえ見出す。それが対話です。
それを白黒つけたがる方々に納得していただくのは、難しいことだと思います。それには対話をすることによってパフォーマンスが上がったような経験が伴わないと、なかなか難しいかもしれません。そこはやはり学校全体で少しずつ浸透させていくしかないですね。
これからの学校現場で大切なコミュニケーション
ーーここまで声掛けのタイミングや話し合いの価値など、大事なポイントについてお聞きしてきましたが、改めて「先生に求められるコミュニケーション能力」についてお聞かせください。
今は、社会の変化に組織の変化が追いついていない。そういうことがおそらく日本の教育の各所で起こっているのだと思うんです。
よく学習観の転換とか学校観の転換と言いますけれども、何が転換しているのかということを、管理職や行政がきちんと押さえておかないと、単にカリキュラムやルーブリックを作っても、現場の先生たちにとっては腹落ちしないと思うんです。つまり、腹落ちして理解してもらえるかどうかが、コミュニケーションのポイントだと。
例えば豊岡市の小中一貫教育「豊岡こうのとりプラン」では、ふるさと教育と英語教育、コミュニケーション教育を特色の3本柱にしています。
小学1年生から中学3年生までの9年間を、前・中・後期の3つに区切り、前期がコミュニケーションの基礎力、中期が協働性、後期は誰に向かっての表現なのかを意識するという、系統性と一貫性のあるカリキュラムが組まれています。
全教科で特色の3本柱を意識したルーブリックも作っています。字面としては完璧です。でも、このカリキュラムの全体像を例えば体育の先生に腹落ちして理解してもらえるかどうかがポイントです。
跳び箱は、より高い段数を飛べた方がいいという考えも事実です。でも一方で、世の中には3段飛べる人も7段飛べる人もいるから、その人たちをどう生かすかというのも教育の役割だろう、というのが今の学習観の転換ですよね。
でも、多くの体育の先生方は、4段より5段、5段より7段飛べる方が絶対にいいという教育を受けてきた人たちだから、この教育観を自分から変えられるかどうかなんです。それは、大変なことですよ。だからこそ、その人たちのキャリアも尊重しながら、学校全体で腹落ち感のあるコミュニケーションに取り組んでいかなければならないということなんだと思います。
つまり、今日のメロンよりも明日のメロンをたくさん!みたいな子と、そういう子を育てられる先生を増やすということですね。
<取材・文:チームAuthentic/写真提供:豊岡市民プラザ>